偽書「東日流外三郡誌」の正体

  


東日流三郡誌の正体



この記事は長文になりますが、どうしても書きたかった内容です。 「東日流外三郡誌」を本物だという擁護派の方も是非読んでいただきたいと
思います。


この文献と申しますか古文書ですが、多くの人がだまされ、その資料を参考に多くの本が出版され、その本を読んだ人がまた参考文献にしネズミ講のごとくその出版物は増えてゆき、東北の古代史ファンに大きな影響を与え、取り返しがつかないほど広まってしまったのだ。
それは、マスコミを巻き込み、また数か所の町までだまされてしまった。

私は多賀城にある「あらはばき神社」に興味を抱いたことからこの神の存在を知りたくなり古代史を調べるようになった。
隣県にある「あらはばき神社」に知る限り実際行ってみた。 それはHP「あらはばき」にリンクしてある。
「東日流外三郡誌」の影響は古代出雲の研究者にも一部東北に関する部分で引用されてしまっている。
「東日流外三郡誌」については、当初私も根本的な部分は本物で和田喜八郎氏が追記したりして偽書扱いされたとばかり思っていた。

なぜ偽書とされたのか 
著作権の裁判とはどんなものだったのか?
この古文書の真相を探りたいと思い次の三冊の本から抜粋してその内容を記載したいと思います。

偽書「東日流外三郡誌」事件 斎藤光政(東奥日報社    だまされるな東北人ー「東日流外三郡誌」をめぐって  責任編集 千坂嵃峰 本の森

                   

    幻想の荒覇吐秘史 「東日流外三郡誌」の泥濘  原田実 著  批評社
             どの本も実情に詳しい方々などと対談形式になっています。



  この記事の中に古田武彦氏・・と出てきますが、この方は「東日流外三郡誌」を広めた一人でもあります。
  こんな本も出しています。  彼は擁護派です。
  この本で影響を受けた人も多いと思います。  人は活字になると信用してしまいますよね。

         

HP管理者  
この吉田氏。先日、朝日新聞の書籍の紹介のところで新刊を出したのか? 掲載されていました。
著者の紹介のところに「邪馬台国」は無かった発表し歴史家たちから見向きされなくなった・・・?みたいな紹介文でした。
これから紹介するなかで良く出てくる人物なので、事前に紹介しました。

それでは、各書籍の文を引用する形になりますが、その内容の一部を記載したいと思います。

            序       谷川健一 氏

「東日流外三郡誌」は明らかに偽書であり、世人をまどわす妄誕をおそらく戦後になってから書きつづったものである。
和田長三郎の末裔と称する和田喜八郎氏の著「東日流蝦夷王国」の序文の一節に・・・・・
安倍一族の子孫の秋田孝季とその縁者の和田長三郎吉次であり、編纂のために二人は寛政元年(1789)以来三十三年の歳月をかけて、北は北海道から南は九州まで日本諸国をめぐり歩いて資料蒐集につとめた。
この二人は長崎においてバテレン(宣教師)トマスに師事して、西洋史学を学び、これを取り入れて、東北日本史を語るという当時において画期的な追及をもなしとげたという。 とある。

だが禁教時代にキリスト教を布教する外国人が存在したなどということは、およそ多少の知識ある者は考えることは不可能である。
また、「東日流外三郡誌」上巻143ページに次の文章がある。
「依て都人の智謀術数なる輩に従せざる者は蝦夷なるか。吾が一族の血肉は、人の上に人を造らず人の下に人を造らず、平等相互の暮らしを以て祖来の業とし・・・・・・」
元禄十年七月秋田頼李が書いたとあるこの文章が福沢諭吉の有名な言葉を下敷きにしているのを見るとき唖然とするのである。

この福沢諭吉云々が私のみならず多くの人々に不審な思いをもたれていることを察してか、福沢の手紙が和田家に十通のこされていることを、その友人の藤本光幸氏を通じて平成五年(1993)五月二日付の「陸奥新報」紙に発表している。
それは嘘の上塗りするために和田氏が新たにねつ造した偽りの手紙であることは明白でである。
この手紙は安本美典氏らによって徹底して分析され、追及されることになるがそれについてはここではこれ以上触れない。

後で記しますが、筆跡や福沢家の証言で偽物であることがわかっています。


「戯画」が本物の絵画より芸術的にすぐれている場合があるように、古今東西に偽書と称されるものは数多いが、その中に読ませるものが混じっている。本物と寸分違わぬという以上に本物の特質を捉えている場合がある。
だが、「東日流外三郡誌」はそうではない。文章も文法も滅茶苦茶で、拙劣、醜悪の限りをつくしている。
偽書としては五流の偽書、つまり最低の偽書である。


古文書の出自

有るものは無い    無いものはある
これが「東日流外三郡誌」を書いたペテン師の自分に言い聞かせる呪文である。
この呪文を三回となえたのちに彼は仕事に取り掛かる。 
原本はない。しかし写本は有る。 写本が有る以上は原本がある。といった具合である。
天井を張らないことが普通の、東北の農家の天井から、古文書の入った長持ちが一度ならずしきりに落ちてくるのも面白い光景である。
また写真に撮った山中の城が次には忽然と消えているというのも印度の魔術以上の鮮やかな風景である。
学者の本を盗み読みしながら江戸時代の文書にモンゴロイド族と書くのもなかなか愛敬があるではないか。

偽作の場

最後に《偽書「東日流外三郡誌」事件》のエプローグの中で紹介されている部分ですが、古文書が出てきた場所の検証をしています。

2003年2月,五所川原市飯詰。和田という主を失った「『外三郡誌』発見の家」での現地調査は続いていた。
懐中電灯を持って走り回る原田,この建物の現在の所有者である和田キヨヱが立ち会っていた。

 かつて和田は「東日流外三郡誌」の出現の模様を次のように繰り返し語っていた。
昭和二十二年の夏の深夜、突然に天井を破って落下した煤だらけの古い箱が座敷のどまんなかに散らばっていた。
家中みんなが飛び起き煤の塵が立ち巻く中でこの箱に入っているものを手に取ってみると、毛筆で書かれた「東日流外三郡誌」
「諸翁聞取帳」などと書かれた数百の文書である。(「和田家文献は断固として護る)『新・古代学』第一集、新泉社、1995年)
最初に落ちてきた長持ちの中を調べてから、再び天井の上を見たら、まだ六つぶら下がっていた。
(『安倍氏シンポジュウム報告書』衣川教育委員会、1990年)

しかし、天井裏には大きな長持ちをつくっておくようなスペースも、梁に長年綱縛っていたような痕跡もなかった。
第一、梁そのものが細く、「膨大な文書」が入った重い長持ちを六個も七個も支えられないことは明白だった。

生前の和田は自宅に人を上げることを極端に嫌った。それは自分の仲間であるはずの擁護派のメンバーに対してもそうだった。


             和田の家
            
この家は、キヨヱさんらの証言で文書が落ちてきたとされる昭和二十二年当時は天井板を張っていなくて、そのかわりにカヤで編んだすだれだけを渡していたことがわかった。

             

      「東日流外三郡誌」がつるされていたとされる部屋の天井裏を見る原田氏と古代史研究家の斎藤隆一氏

             

             和田が書斎にしていた中二階

             
             大量のペットボトルの中身につては、後ほど記事にしています。意外なものでした。

             
             

    大事なことを忘れていました。「東日流外三郡誌」とは何なのか話しをていませんでした。

 和田喜八郎氏によって公開された文献で「和田家文書」とも呼ばれています。その一部が「東日流外三郡誌」です。
 内容ですがその昔・・・・
神武天皇の東征によって大和を追われた長髄彦の一族がアソベ族、ツボケ族などと呼ばれた津軽の原住民を平定してアラハバキ王国なるものを建て、大和朝廷に抵抗し続けたとするものです。
このアラハバキの子孫は中世の安倍氏、近世の秋田市となり、現在も残っているという。

このようにみると一貫したストーリーがあるように見えますが、和田家文書は短い文章の集積でありその中には内容の重複や前後の矛盾が少なくない。 
また、文体は稚拙で誤字・脱字も多く、その書体は流行した御家流よりも現代人が筆ペンで書いた文字に近い。
また、和田家文書は安倍氏、秋田家の伝承を記したもののはずなのだが素性の確かな安倍氏、秋田家の家系に伝わらない「独自の伝承」が余りにも多すぎるのである。

寛政~文政年間、三春藩主の家臣であった秋田孝季(たかすえ)なる人物が和田氏の祖先・和田長三郎吉次とともにまとめた物だという由来を主張している。
つまり、これが本当なら近世の古記録・古文書の類として、独自の史料価値があるということになるわけである。
ただし、秋田孝季、和田長三郎吉次なる人物は和田家文書の中にしか登場せず、その実在を裏付ける証拠はない。
平成六年秋田孝季が神社に奉納した江戸時代の額が発見されたというニュースが共同通信社から配信されたこともあったが、同社は間もなく報道内容を否定する第二報を出し、その誤報であることを認めた。(【季刊邪馬台国】五五号、梓書院、平成六年十二月、参照)
和田家文書の現行テキストは明治から昭和初期にかけての写本とされる。
和田氏の主張によると、昭和二十三年頃、自家の天井裏に隠されていた和田家文書を見つけたということだが、その発見談は和田氏の文章ごとに二転三転しており定まっていない。

その家が上記の写真である。



東北は長い間、中央の差別史観の下に置かれていた。
蝦夷を人倫を知らぬ獣ときめつけ、明治維新の際には朝廷に弓を引いた朝敵として扱い、烙印を押されたのが東北であった。 東北の人々は辺境にあって蔑視に耐え、自分たちを鼓舞激励する書物の出現を待望してきた。
そこで、東北の名誉と誇りを回復したいと願う人々にとって、「東日流外三郡誌」の出現は、早天の慈雨のごときものであったことは、充分に推察できる。

(HP管理者)
(上記の文については私も同感です。確かに当時の東北人は朝廷からはこの知識のない獣扱いでした。東北出身の古代史ファンにとってこの本は朝廷を見返してやったと思ったことでしょう。)

そうした東北人の心情をたくみに利用して、次から次に偽書を流布して人々を手玉にとった悪徳の行為を許すことはできないが、それに踊らされた善人たちについては、一片の同情を禁じ得ない。
しかし、虚偽を真実とすることは不可能である。

「だましの法則」から
千坂さん談話・・・・・・千坂嵃峰(ちさか・げんぽう)宮城県生まれ・東北大学文学部卒・聖和学園短大教授
                                    北上川流域の歴史と文化を考える会、同流域地名研究会・両会長
珍しいものにひかれるという点でマスコミの果たす役割が問題になると思うのです。
例えばTBSで「東日流外三郡誌」を取り上げたことがありました。「世界不思議発見」という番組でこれをやったことがあるんですよ。
TBSの場合は、その後、「東日流外三郡誌」の問題を訂正したので、良心的な方だったのかも知れませが、やはりマスコミが、珍しいというだけで確かめもせず報道するという姿勢は、問題ではないでしょうか。

浅見・・・・・浅見定雄(あさみ・さだお)山梨県生まれ・東京神学大学博士課程修了・ハーバード大学神学部博士課程卒業
                            東北学院大学文学部教授

テレビに取り上げたというだけで権威があるように思ってしまう。 権威の法則が働くんです。

信じたい人が騙されやすい
千坂  「東日流外三郡誌」も同じですね。 先だって青森県へ行きました。 最初に巻き込まれたというか、偽の古文書を発行する時に、引き込まれて、編集なんかのお手伝いをしたいという人に会ってきたんです。 その人たちの反省の弁を紹介して、彼らも被害者だというそういう形で紹介しようと思っているんですが、実際には加害者の面もあるんです。 やはり、今言ってたようにですね。コミットメントの法則に当てはまるんですよ。

その後、青森県の市浦村・岩手県の衣川村・秋田県の田沢湖町などもだまされたんです。
最初希少価値のある古文書ということで「東日流外三郡誌」が地域の有力者のところに流れて来て、次に来るのが、古物。
刀ですとか、仏像ですとか、当初は和田さんが差し上げる、相手が貰うという形なんですけれども、いつの間にか、それに対して対価を差し上げなければいけないだろうみたいなことになってくる。
自分で買っている分についてはまだいいんですけれども、それを誰かにまた斡旋するようになり、そしてほかの知人にも紹介しちゃうとコミットメントが成立する。  コミットメント="commitment" 約束・義務・責任・献身・傾倒・・・
そこから自分はもう抜けられない。 だから、今ではだまされたと思いつつも、公言できないでいるという構造になっているんです。

浅見 若い娘さんが結婚詐欺師にひっかかる心理も同じです。 信じたいわけですよ。
信じたい人を騙すくらい簡単なことはないのです。
衣川村でも一関市でも結構ですが、信じたがっている人が相手なら、私だって偽書を作って騙しに行けます。
まず「希少性」で売り込んで、次にハバード大学の博士ですとか、テレビにもよく出ますとか、「権威の法則」で信じさせちゃえば、あとはもう自分から信じたがってきますから・・・・・・

自己過信は騙されやすい
千坂  東北人にはある種のコンプレックスがあり、歴史に関心のある人の中には、自分たちの郷土の誇れるものを求めるあまり、古代東北の栄光を記した「東日流外三郡誌」のよって培った情報を、何の裏付けもないままに主張し発表したりします。
それを読んだ一般の人がまた影響を受けて、嘘の歴史が出来上がってしまう。
そのようなことをそのままにしておいては、真の地域づくり妨げになるというのが、私の考えです。
  「東日流外三郡誌」を見れば、いかにも教養のない者が書いたということがわかるはずですが、こんなに広まった原因を作った一人である古田武彦氏について、お聞きしていきたいと思います。
まず、斎藤さんが一番初めに「東日流外三郡誌」と関わったきっかけからお話し願います。
※古田武彦氏については上記に記載しています。

斎藤・・・・・斎藤隆一(さいとう・りゅういち)福島県うまれ・東北の民俗と歴史を研究・市民の古代研究会会員
       著書に「歴史を変えた偽書」「東日流外三郡誌」偽書の証明など多数
わたしも東北の民俗と歴史に興味があって、いろいろと地方の伝承などを調べていたので「東日流外三郡誌」についても、当時話題になっていて注目しておりました。
それで、昭和六十一年頃、北方新社刊の六巻本を購入して読んでみると、ひとつ私の目を引いた箇所がありました。
それは『安倍大観記』という題の中の「神武軍に追われて、傷を負った長髄彦が東国へ逃れ、兄の安日彦(あびびこ)が越国へ逃れて、出会ったところが会津という内容でした。

千坂  「古事記」にも同じような説話がありますね。

斎藤  崇神天皇の、いわゆる四道将軍派遣の説話ですが「古事記」では「大毘古命が高志国へ、建沼河別命(たけぬかわわけののみこと)が東に行って、会津で出会った」という内容になっていて、こちらは親子ですが、当初わたしは、「古事記」説話を知っていながら、長髄彦説話を新たに創作するというような偽作は、通常な精神では、まずやらないのではないかと思い、長髄彦説話のほうが原型ではないかと思いかけた時期もありました。
「東日流外三郡誌」を含む「和田家文書」の大部分は、偽作にせよ、やはり、その核となる本物はあったんじゃないかと思っている人が多いのです。
ところが調べてみると「和田家文書群」だけにみられる稚拙な創作部分を除けば、その核となるのは、「古事記」だったり、「陸奥話記」だったり、あるいは古典だけでなく、昔の地方出版物や現在の研究者だったりするので、かえってオリジナルな原本の存在は考えにくいんです。

千坂  本当にあるなら、三年も前に原本を出すと言っていながら、いまだにでていないというのも、おかしなものですね。

斎藤  原本があるのなら何をおいても先に出すべきですが、出さない。 つまり、現代の偽作物なので原本が無いと思うしか有りません。
しかし、三内丸山遺跡なんかが記されている「大正写本」「昭和写本」といった新資料は、相変わらず和田喜八郎さんと同じ筆跡で次々と出てくるのですから偽作は明らかなわけです。

            


だからといって、今さら原本を偽造するとしても、江戸時代の用語、筆法、文法、紙質、墨質などをきちんとしなければなりませんので、まず、不可能でしょう。いくら古田さんらが「原本さえ出れば」と言っても、もう「東日流外三郡誌」の江戸期原本の出現はありえないと思いますね。

千坂  「東日流外三郡誌」は、漢籍や仏教の知識のない人物が書いた、非常に杜撰な内容ですから、ちょっとその方面の知識のある人が見れば、すぐに偽作とわかるシロモノです。

歴史史料としては使えない

千坂 斎藤さんが「東日流外三郡誌」をダメだと思ったのは、どんなことからでしたか。

斎藤 「陸奥国の成立」を調べていたら「東日流外三郡誌」の中に多賀城の事を述べている文書「東日流古今往来」がありまして、それには「天平宝字三年に、多賀城は蝦夷に征服され、陸奥国には一兵もいなくなり、それは田村麻呂が大軍を牽いて蝦夷を征服するまで続いた」とありました。
 つまり、「強い蝦夷軍団がいて、陸奥国を奪回したという。 わたしたち東北人には、耳ざわりの良い話なのです。
しかし、事実は違いました。天平宝字三年(759)から延暦三年(784)の間に伊冶公呰麻呂(これはるのきみあざまろ)の乱があり、その期間の漆紙文書や木簡が、多賀城から多数発掘されておりまして陸奥国には一兵もいないどころか、多賀城が政庁として正常に機能していた事を示しています。
それで、これは歴史史料としては、とても使える文献ではないこと示しています。

 HP管理者
(漆紙文書や木簡は東北歴史博物館で実物を見ました。私は多賀城出身なので身近に政庁跡や多賀城廃寺または多賀城碑などがあります。
もちろん本物の「あらはばき神社」もあります。 和田氏が作った石塔山荒覇吐神社とは問題になりません。[工事中の写真は後ほど掲載します。])




出土や報道の後に文書が出る
千坂 彼ら(古田史学の会)は現在の考古学出土品と「東日流外三郡誌」の記述とが、一致しているという主張もしているようですが、、その点考えですか。 斉藤さんは「壺のいしぶみ」について批判しておられますね。
斉藤 色々な資料を参考にして、あれだけ書きまくった和田氏の文書の中から、ある一点のみを考古学と一致したなどと主張する事は、こじつけにすぎません。
内容をみると石段とか普通にありうる部分だけ合っていても残りの大部分はまったく違っています。
これについては藤村明雄さんが考古学関係と「東日流外三郡誌」を比較研究していますが、彼らが見事な一致と主張している事項は、そのすべてにおいて出土や報道が先で、その後に文書が出現しているのです。特にひどいのは、北海道の余市町の「豪華武具」出土の件です。

余市町には天内山があるので、豪華武具出土は「東日流外三郡誌」に記述のある、南朝の「天真名井宮(あまないのみや)が渡来した証拠ではないかという、佐藤矩康さんの説が新聞報道されたのです。
そしたらほどなく寛政五年に秋田孝季が書いたという「天内山妙」(北方新社)刊 『和田家資料Ⅰ』)という新資料が出現して、その通りの事が記されていたのです。しかも「余市の村」天内山あり。名称正しくは天真名井山なり」と書かれていたので、藤村さんが調べたら、明治二十六年に入植してきた「あまうち=天内」家の所有地なので「天内山」という名がついた事がわかったのです。

千坂 「あまうち」を、漢字の読みだけで「あまない」と解釈してしまったのですか。偽作は歴然ですね。
しかし、この藤本さんの事は省略しますが「東日流外三郡誌」の最大のスポンサーで藤本さんも関係している偽作とみている。

「壺のいしぶみ」

斎藤 「東日流六郡誌絵巻」(津軽書房)に「都母之石碑の画」というのがあって「寛政五年」に「実写」したと書かれています。 しかし、その頃に「日本中央碑」など地上に存在しなかったのは確実で、菅江真澄がたずねても、昔埋められたという伝説しか聞けなかった事が記載されています。 それなのに「東日流六郡誌絵巻」には、ちゃんと書いてあるのです。
これもおかしいと思い、文献的に調べてみると「日本中央碑」の形が「丸い石=つぼの形の石」という概念ができたのは、十八世紀末頃からだったのです。それ以前の文献に現れる「日本中央碑」の形態は「細長い」形なのです。
ところが「東日流六郡誌絵巻」では、丸い形で描かれています。

                  


つまり新しいわけです。そして現代の「日本中央碑」は昭和二十四年に出土したといわれているものですから、それと形状的にそっくりというのは、「東日流六郡誌絵巻」は昭和二十四年以降に描かれた可能性さえもあります。

HP管理者
私の記事に多賀城市にある。本物の「壺の碑」があります。ここにリンクしました。
多賀城碑(壺の碑)・多賀城廃寺跡/多賀城市  また多賀城については、このHPのコンテンツにリンクしてあります。
 「あらはばき」も記事にしています。

千坂 現地で実際に「日本中央碑」を見た感想はどうですか。
斎藤 古いものではないでしょうね。石英質多孔岩の自然な表面に、一定しない深さで、浅く「日本中央碑」と彫ってあり、裏をみても古田さんが言うような、はっきりした切削の痕跡などはありません。あくまでも自然な岩です。
これについては青森市の松田弘州さんも書いてまして(あすなろ舎刊『古田史学の大崩壊』)、やはり発見当時には偽作と真作両説が出て、郷土史家の葛西覧造さん、成田彦栄さんといった人達は、文字を削った面が新しいので、近頃彫られたものだと主張しているんですね。

千坂 ちょっと専門的な人なら、偽書だという事はすぐにわかるのですが、一般の人達は、有名な人やオカルトに傾倒した人達の書いたものを、きちんとした裏付けがないにもかかわらず、信じてしまいがちです。
東北でも地域の小出版物などの中に「アラハバキ族」とか「アラハバキ魂」などの言葉が、ときに見られますが、それによって地域の伝承が変質するかもしれない、非常に危険な状態だと思います。

いくらおかしいという例を挙げても「それは一部で、すべてを偽作とは証明できない。何割かは真実が含まれている」と主張してきます。
しかし、学問的には、正しいと証明されない限り、すべてが疑問の対象であるはずなのに、彼らは何の学問的証明もせずに都合の良い部分だけ引用していろいろ書いているのです。

千坂 中には、自信過剰のあまり、自分の主張が正しいのだから、証明するまでもないと考える人もいます。しかし、大部分の人達は、定常な理性と理解力を持っていますから、だれが見ても偽書だとわかるような例をだせば問題が氷解すると思うんです。
そこで、いくつかそれを挙げてもらえませんか。

斎藤 「東日流外三郡誌」が文書学的に怪しいという例は限りなくあります。

例えば改元以前の月に、まだ使われていない年号が記されていたり、閏月に書かれた文書がほとんどなかったり、記述の内容と年代が合わなかったり、近代的内容だったり、まったく従来の文書学の常識を逸脱したものである事は、千坂先生もご指摘の通りで、また多くの研究家も指摘しているところです。

例えば下記の図ですが、これは太陽系の天体図と、地球の太古図のつもりでしょうが、天体図には「明治壬寅(三十五)年発行大英天文学書より」と書かれた文書に、大正五年に発見された冥王星が記されております。
また地球の太古図には「ウエゲナー学説 明治辛巳(十四)年発表と有りますが、明治十四年といえば、ウエゲナーはまだ一歳で、大陸移動説を発表するのは、それから三十年後のことですから、こんな文書の史料価値はありません。

            



偽作者は仏教に無知な現代人

偽作者の教養の無さが「東日流外三郡誌」表れていることを発見できない「東北」にも問題があるのではないかと言っている。
例えば、市浦村(後で詳しく記述します)というのは、昭和三十年に合併してできた村なのに「東日流外三郡誌」に載っていること。
または、大湯ストーンサークル環状列石(以前記事にしています)は、昭和七年に発掘されたのに、それが記されていることなど明らかにおかしい。
このような事が判れば、「事実から眼をそむけて、なんとなく反体制的なムードに流される」ということもなくなるのでは・・・

ビックバンを書いたり、宇宙の年齢とか、冥王星とか、そういうまったく新しいものを「和田家文書」に載せるということも、呆れたことですが、下記の図を見てください。

山王坊に関する図ですが、無知というか、本当にひどいものだと思いますよ。

老荘思想とか仏教とかそういう江戸時代の知識人が持ったような知識が、「東日流外三郡誌」の作者には全然わかっていません。

仏教の知識のある人が見ると、誠にばかばかしいのです。奈良時代の宗派の事がまったくわかっていないんですよ。
奈良時代の仏教は南都六宗といいましてね、これは学校でも習うのですが、律、華厳、法相、これが左に書いてあります。

                
「山王坊明細図」は、江戸期の人物が書いたとは思われない。表現の誤り、誤字がいくつかみられ、仏教の知識が薄い現代人の作であろう。


ところが右側を見てください。 「三輪」と書いています。しかしこれは「三論」の間違いなのです。
一番下に倶舎とあるのはいいのですが、日吉神社の下のところに「実成」と書いてありますが、これは反対なのです。「成実」(じょうじつ)といいます。
南都六宗は、今の宗派とは違うのです。
奈良時代の南都六宗は、正式のお坊さんが学ばなければならない、六つの学問分野なのです。・・・・・

和田氏はともかく、親鸞の研究者などと自称している古田氏や、専門家の佐藤堅瑞氏までが、仏教の知識不足で「東日流外三郡誌」を擁護しているのは嘆かわしいですね。


「あんなに膨大な数の文書を一人で偽作できるはずはない」という事になるのです。しかし、実は中味も数も、そんなに充実はしていないのです。
「北鑑全六十一巻」なんて書いてありますが、あるのは同じような内容のものが十巻程度です。張り子の虎ですよ。これまでのものは充分一人で書ける分量です。


千坂 「東日流外三郡誌」の作者が、鎖国のさなかに日本を脱出して、中国とかロシアに渡ったということになっていますが、最後はどこまで行ったことになっているのですか?

斎藤 エジプト、ギリシャまで行ったと書かれています。 藤本光幸さんがまとめた「和田家資料1.2」から中近東の方に行った記録がでてきます。
 突然でてきます。 記録年代は同じ時期なのにそれまでの「東日流外三郡誌」には、そんな記録は一行も出てきません。
つまり出現時期とともに内容も進化しているんです。

千坂 新しく出る資料になるほど「東日流外三郡誌」の現代の作家はどんどん知識が増すことになるわけですね。
 秋田孝季がいろいろなところを回ったとか、いろんなことを知っているようなことを書く。それなのに、まったく漢籍の教養もないという事が、ものすごくアンバランスだという感じがしました。
初めての構想の段階からおかしいので、この作者はやっぱり文化的な詐欺師だということになりますよね。
今までは歴史を生かした形で、詐欺行為をやっていたので、歴史の分野から逐ー攻撃をするしかなかったわけです。 けれども最近のように、無神経に多量の創作偽書が出るようだとやはり全体の大枠の中で、今言ったような漢籍の教養さとか、仏教に対してまったく無知であるとか、あるいは民俗学的な無知や地名などの無知を指摘することが必要ではないでしょうか


私は、もう一つの例として阿闍羅山(あじゃらさん)を挙げたいと思います。
「アラハバキ族安倍氏の築城」の年次の中に出てくるのですが、これまたお笑いものです。
実は、安倍(阿部)氏の先祖が西暦以前の懿徳七年に築城したものとして、阿闍羅山が紹介されているのですが、阿闍羅山というのは高速道路で北上すると、青森県に入って碇ヶ関を過ぎたあたりに阿闍羅パーキングがあります。その左に見える山なのです。
阿闍羅というのは仏教用語で不動明王のことなのです。 偽作者は、仏教に知識がないのであまり気にしないのでしょうけれども、とにかく仏教とか漢籍に疎いという事で、平気でこのようなことを書くのでしょうね。
だいたい不動明王の信仰が東北地方に入ってきたのは、十世紀行こうと考えるのが普通です。
しかも、お釈迦様の誕生が紀元前五世紀なのでその頃に仏教が日本に渡ってくるわけがありません。
中国だって、伝来したのは一世紀です。だから、日本の紀元前に、仏教にちなんだ地名があるはずがない。 ちょっとひどすぎますね。嘘をつくにしてももう少し仏教について学んで欲しいものです。

デタラメでも、築城の年月とか、人名や地名を詳しく、要するに細かい事をいっぱい書いて、みんなが気にしないようにするんですね。
いっぱい細かいことを書くことによって、一般人には全体像しか頭に残らないようにするといううのが「東日流外三郡誌」の創意と構想だろうというふうに思っています。
細かい事を指摘すればそれこそ限りがありません。正直いうと、もう構想の段階で虚偽性が見えてくるので、この本には関わりたくないと思ってしまうのです。

「東日流外三郡誌」は他の資料を剽窃して、偽作されているようですが、一番顕著な例が『國史画帖大和櫻』(昭和十年刊行)の絵を写している事ではないかと思われます。
これについて肯定論者は、どのような反応を示しているのでしょうか。

斎藤 下記の図は「東日流外三郡誌」と『國史画帖大和櫻』ですが、同一構図が三十五枚もありながら、これを「東日流六郡誌絵巻」の方が自然の構図なので古いと、本末転倒の主張をしたのは、古田さんとそのグループだけで、さすがに他の論者は一切沈黙しております。

千坂 これは誰が見ても『國史画帖大和櫻』の方が、オリジナルである事は歴然でしょう。

斎藤 専門の先生もそう言っています。『國史画帖大和櫻』の錦絵は、歌舞伎の表現を描いたものです。 一方「東日流六郡誌絵巻」は自然体なので近代的だという事です。

                  


「東日流六郡誌絵巻」の原図(コピー)をOHPフィルム(透明シート)にコピートして重ねますと、どの図も『國史画帖大和櫻』にピタリと重なりますので、偽作者は『國史画帖大和櫻』の主線を鉛筆でなぞって、筆が記した事が判ります。
実は和田さんの元から漏れ出た文書が、幾度も鑑定されて、紙質や筆跡などから、戦後に偽装された事は明らかになっているのですが、古田さんは「鑑定資料はレプリカ」「筆跡は和田さんのものではない」などと主張して、決して認めようとしません。けれども古田さん自身が明治の紙として、「九州王朝の歴史学」というご自身の著書に載せた「和田家文書の紙質の顕微鏡写真が実は戦後の紙のものだったという笑い話的なことも起きております。


斎藤 産能大教授の安本美典さんは、古田さんが「和田家文書」偽作にまで加担していると言っております。 広島の人に、古文書の紙集めを依頼したとか、古田さんのの主張どおりの新資料が次々出てくるとか和田さんの嘘に加担しているとか、陰の噂では古田さんに関して、まだ釈明されていない怪しいところが、かなりあるようです。


虚報を作り出す人々から・・・・

斎藤  大化改新の時に蘇我蝦夷によって焼かれたはずの「天皇記」「国記」が、和田さんのところの石塔山神社にあるという話がありまして、古田さんも講演会などで、「見つかれば素晴らしい。歴史を覆す」と言っておりました。
その文書のことは1994年5月31日の『東奥日報』夕刊で報道されましたたが、「丑寅日本記という和田家文書に「石塔山古書目録」として書かれている内容を見ますと、でたらめだという事が一目陵然です。
『東奥日報』の載った学者のコメントも否定的でした。

この図が「天皇記 十二巻」「国記 十二巻」の他にも「和田記 一巻」「葛城記 一巻」など知られた豪族名を書いたのは良いとしても、「努王記 一巻」「阿毎王記 二十七巻」「多利恩比孤記 一巻」「阿輩雞彌記 一巻」など中国側の文献に出てくる表記そのままの王の記録が書いてあったり、「磐井」を王とするなど、これは古田さんの著書の影響下に成立した文書であることは明らかです。


              


「石塔山古書目録」に記されている「天皇記」「国記」だが、他の「磐井王記」などの文書の名称を見ると、創作であることが明らかである。
このようなものに、朝日新聞社が騙されそうになった。

朝日新聞社の関西支局に、U記者という吉田さんに心酔している方がおられまして、その方が古田さんと一緒に、津軽まで文書を受け取りに行きました。
その時に、和田さんの家の二階の壁に、江戸期の原本が塗り込められているという話を聞いたようです。
確認などはしなかったようですが、その時に初めて古田さんとU記者は、和田さんの家に入ったそうです。

ところが大阪本社で編集委員をしておられた高橋徹さんという、古代史の本も書いておられる方が一目で偽書だと見破りまして、朝日新聞社が買い取る話は、消えてしまったのです。
和田さんは話が違うと怒ったといいます。 それで当時古田さんがいくらかお金を立て替えたと、噂になっております。




HP管理者
まだ途中で、しばらくこの話はつづけますが、一般の東北の古代史を愛する歴史ファンには、とんだ茶番の歴史書です。
これからもっと出てきますが、町ぐるみ騙され、その偽書から生み出された多くの出版物の影響は未だに衰えません。
タイトルになっている遮光器土偶は、アラハバキ神と思っている人がまだまだいます。
ちょっと冷静になって改めて歴史を見つめなおしてもらいたくて、この記事を書いています。
古代を想像し、自分なりの持論を語るのはいいと思います。逆にそれが楽しいのです。
しかし、そんな素人の私たちを騙すのは許せないのです。
私たちを騙せても、その道の専門家は騙せなかったようです。
まだまだ和田家文書のほころびは続きます。



「東日流六郡誌絵巻」のデタラメサ・・・から

対談者プロフィール  
小野寺永幸 1925年 岩手県生まれ 岩手青年師範学校卒業 東京大学教育学部に学ぶ、中学校校長を歴任後、東北史学研究所所長 
著書に「みちのく古里物語」「秘録少年農兵隊」など、多数
千坂氏は2話で紹介しています。


小野寺永幸  地元一関の事でも、おかしいなと思うことが随分書かれています。
たとえば、「東日流六郡誌絵巻」の中で「安倍安東秋田氏遺跡八十八景」というのがあるんですが、その三十三番「小松柵跡」(下図1)は、一関にあるはずの小松柵跡と藤沢町付近の黄海の戦いと混同しているんです。源義家に従うものが六騎ばかりになって敗走したというのは、黄海での事なのに、一関に擬定地がある小松の柵での事件としているのです。

一関は北上川とその支流祝い磐井川によって天然の要塞となっています。
磐井川が当時の前九年の役の古戦場というふうに見ていいと思う。ところが一関近辺の地理がわからないせいか、小松の柵の擬定地が一関萩莊なのに、それを藤沢町黄海にすりかえて平気でいるんですね。

それから阿津賀志山(下図2)というのが出てくるのですが、あれは「吾妻鏡」に記述されているように、文治五年、頼朝が攻めてくるその時の戦場なんです。
ところが、それも前九年戦争と混同しています。とてもお話になりません。

千坂  事実の間違いもひどいもんですが、描かれている絵も相当劣悪です。

    


中尊寺所有の「骨寺村絵図」があります。
おそらく六百年から七百年くらい前に描かれたものではないか言われているものですが、「六郡誌絵巻」とは全く違います。昔のものは田を中心に描くか、領地の境に力点があるかで、描き方がまるで違ってくる。


小野寺永幸 昔のものは濃淡があるんですよ。遠近感を出しているんですよね。普通はこういうふうな絵が描かれていることはないですよ。

千坂  しかし、絵だけでなくわきに書かれている説明の字も相当ひどいですね。古文書らしくするならせめて崩し字ぐらいは覚えないと。
地元の人が見てもすぐわかるような地名の取り違えが多い。
さらに平泉は四十八番にさっと出てくるだけであまり書かれていない。いいかげんな事を書くためには平泉は対象として都合が悪いのです。
古文書hが相当あって研究者が多いだけではなく、内容も深くなっていますからね。  そういうところには和田さんは入って行かないというか能力的に入っていけないというか。

小野寺永幸  だから、多賀城とか胆沢城とか古い時代に持っていく。

伝承と歴史的事実の混同

千坂  正直言ってアテルイに関しては考古学的なものも出ていないし、文献にしても「続日本記」「日本記略」「日本後記」にほんの少し出てくるだけだから、そういうところは自分の虚構を膨らませるのに誠に都合がいい。


和田家資料が初めて世に出てきた時期が、考古学的な発見、論文や新聞記事の後であるということは、斎藤隆一さんや多くの人が言っています。ですから、個々の人達が「東日流外三郡誌」等の記事について、事実かどうかを自分の頭で自分の力で調べてみようと思いさえすれば、偽書であることはすぐにわかると思うんです。

それから、遮光器土偶をアラハバキ神などとしているのですが、お笑ものですよ。
アラハバキ神が多賀城市や岩出山町にあることをしらないでしょうかね。
 

この神格をもう少し探求するような姿勢こそ求められるのに、彼はそういうことに必要性に認めていないのです。
多量の作り話を振りまいて、民衆を幻惑すればいいだけなんですからね。



和田喜八郎さんの経歴詐称が明らかになっていますが、ここではパスします。


アテルイ兵士の名簿

佐藤 阿弖流為が五百の兵を牽いて田村麻呂の軍門降った西暦802年のときのことを話し始めたんです。 その時「実はその五百の軍勢のうちのおよそ三百五十ぐらいの兵士の名前を書いたものがあるんだ」と言いだしたんです。
兵士のながわかるはずはないと思いましたが、「それはすごいですね」と相槌を打ったら、「これだ」と言って持ってきて、ちらちらっと見せてすぐしまいそうになったのです。
そこで「ちょっとまって下さい」と言って、私がストップをかけて、「地元ですから、ぜひここだけでもちょっと写真を撮らせて下さい」と頼んで撮らせてもらったんです。

            

そこには田茂亜吐呂井とか羽田大萬柵巣とか、男女川なんとかとか、北鵜貴とか江刺巌谷堂柵の云々だとかさらに、衣川江刺柵、江尻子和賀の云々とかですね、つまりわれわれ阿弖流為の地に身近な地名がたくさん書かれているんですね。「もう駄目駄目」と言われたけれど、隙を見て三、四枚、写真を撮ってきました。
表紙はちらっと見ただけで、写真に撮ることはできなかったんですが、たしか「北斗抄」というタイトルになっていました。
~割愛~
地元のところだけ見てもおかしいことは多いんです。 羽田というのは水沢のちょうど新幹線の水沢江刺駅のところなんですけれども、そこは羽黒山神社があって、昔は羽黒堂村、そこが阿弖流為の柵の跡で擬定地だなんて言ってますけれども、そこと田茂山村が明治八年に合併して、羽黒堂の「羽」と田茂山の「田」を取って羽田という地名が初めてできたのです。
田茂山は、戦国時代の武将の田茂山氏という人がいて、本拠を構えていたところと言われています。 
宮城県の桃生の方から気仙、大船渡あたりに田茂山氏の城跡があったらしいんです。 今水沢市になっている分で言えば、江戸期から明治八年の合併以前に田茂山などの村名が使われているんです。 鵜の木についても江戸から明治二十二年まで、鵜木という地名が出てきます。岩谷堂も文書では旧字を書いていますけれどもこれも安永風土記には出てきている地名です。
羽黒堂村も戦国時代の羽黒氏の本拠地だとかで、建武年間あたりにも出ているはずです。
地名辞典を調べても十四世紀にもあった地名なんですね。・・・・・

HP管理者
割愛しますが、矛盾が多すぎて呆れてしまいます。


佐藤
伝承に過ぎないことでも、文字になれば、それが事実なんだと思ってしまう。このような傾向はあちこちにたくさんあります。
そういう話にちょっと関連して言うとこの間、たまたま九月に遠野の常堅寺という河童狛犬のあるお寺の息子さんと、(息子さんと言っても学校の先生を退職した人で、かなり高齢の方)
と話をしました。その時実は河童狛犬というけれども、作った時までは普通の狛犬でした。
私もやりましたけれども、ガキどもがみんな狛犬にまたがって、石で狛犬の頭を叩いて、だんだんだんだんやっていくうちに、これは河童淵のそばにあるし、河童ということにしようと、みんなでもっと削って、それで今や有名な河童狛犬というふうに言われるようになったんです」というんですね。
つまり、そういう話というのは、誰でも明白な嘘で、いわゆる遠野物語的というか、このような話はああ面白いという話で、河童を見たというおじいさんと同じで温もりのある嘘であることがわかります。 

「東日流外三郡誌」とは質が違いますね。私は狛犬の写真を集めていましたので、やはりここに行き、取材したことがありました。下記の記事がそうです。

2009年3月にUPした常堅寺のかっぱ狛犬
遠野:常堅寺の狛犬さん/カッパ狛犬


「東日流外三郡誌」は現代人が作ろうとした神話だったのです。上記の和田家の写真をご覧ください。
この家がその夢の跡なのでしょう。


写真の女性がキヨヱさんが言う。
「本当にはんかくさい!。私が最初から言ってるじゃないですか。すべて喜八郎さんの作り話だと。もともとこの家には何もなかったんです。古い巻物とか書き物なんか、一切伝わっていなかったんです。それもよりによって何千巻もだなんて・・・・。
それなのに、なんで、頭のいいはずの学者たちがコロッとだまされたんでしょうか。不思議でしかたがありません。いいですか聞いて下さい。古文書が落ちてきたという1947年頃、私はこの家に暮らしていましたが、そんな出来事は一切ありませんでした。原田さんの言うとおり、1947年にはまだ天井版を張っていませんでした。有りもしない古文書が、ありもしない天井版を突き破って落ちてきたなんて、本当にはんかくさい話ですよ」

和田の家を、隣に住むいとこのキヨヱが買い取ったのは2002年12月だった。
和田の土地と建物は和田の死後、長男にあたる中年男性が相続していた。しかし、その男性は不幸にも2002年病死した。
様々な事情から所有権は金融業者に移り、青森地方裁判所五所川原支部で競売かけられたのを落札したのがキヨヱだった。
キヨヱにとって、この家は家庭の事情で十四歳から、結婚して隣に引っ越す十九歳まですごした「我が家同然の建物」だった。
だから、人手に渡るのがしのびなかった。
何より少女時代を過ごした家が「「東日流外三郡誌」発見の地」として、奇異な目で見られることは耐えられないことだった。
キヨヱの案内で回ったこの家は木造一部二階建てで、広さは二百平方メートルほどだった。
和田が事あるごとに強調していた「旧家」というイメージとはちょっと違う印象を受けたが、それもそのはずで、キヨヱによると太平洋戦争直前の1940年頃の建築だという。
 
その事実については実際にあたった大工の小野元吉(五所川原市、故人)も証言していた。
和田が主張するほど古い家ではなかったというわけだ。
次に原田と斎藤、キヨヱ、そして私は問題の部屋へ移動することにした。「寛政原本が壁の中に隠されている」と擁護派が繰り返し強調していたあの「中二階」だった。 そこは和田が常にこもっていたという、書斎ともいうべき空間だった。
中二階へ続く階段の入口は、隠し扉のように改造が加えられていた。細くきしむその階段を上がると六畳ほどの小部屋があった入って正面と左側が土壁、右側が窓という造りだった。
平屋に中二階を無理矢理くっつけたようなこの構造は東北地方では珍しいことではなく、「マゲ」と呼ばれていた。
まず、目に飛び込んできたのは、土壁の一部が壊され、崩された跡と、おびただしい数のペットボトル(1.8L)だった。
土壁に空けられた穴から向こう側をのぞいてみた。  そこには、先ほど、一階の座敷から見上げた天井裏が広がっているだけだった。
問題の中二階の壁の中には、寛政原本を隠す空間など存在しなかったのである。

「この家が空き家になった直後に勝ってに入り込んで、わざわざ土壁を崩した人がいるのではないでしょうか。おそらく”寛政原本が中二階の壁の中にある”という和田さんの話を真に受けて、宝さがしに来たのでしょうね。  しかし、この通り、土壁に開けられた穴から見えるのは一階の天井裏だけ。 せっかく穴をあけたのに目当てのものがなくて気落ちして帰ったんだと思います。



                       
和田の書斎と上記に記載した写真ですが、ペットボトルがあります。この中味は「尿」でした。 
「新しい和紙を古く見せるためにおしっこを付けるということを聞いたことがあります。それかなぁ?」と原田氏がいう。


「私たちはこの瞬間、文献偽作の作業場に足を踏み入れたのかも知れません。ここが「東日流外三郡誌」事件の”現場”そのものではないでしょうか」

            
             量的には史上最大の偽書『外三郡誌』


                     

                     和田家の調査を報じる記事

                    


                    訴えられた謎の古文書

            


訴訟の大まかな構図
「外三郡誌」の発見者とされる和田の著書と、「外三郡誌」そのものに、野村が撮影した写真と中央紙に発表した論文記事が勝手に使われた・・・・というものであった。

盗用された写真は猪垣と呼ばれる近畿地方にある特異な石垣。それなのに、古代の津軽に存在したとされる邪馬台城(「外三郡誌」に登場する架   空の城)が存在する証拠として使われた。
その写真は十六年前に和田に送った。
嘘の歴史は絶対許さない。  と説明した。

つまり、野村氏の論文記事を基に書いた記述が邪馬台城として写真と共に出版された。

                


          

上告申請書

このようなバッタ物の「東日流外三郡誌」をわずかでも信じていたと思うと吐き気がします。


筆跡鑑定

野村の和田氏に対する訴訟から五ヶ月後のことだ。
1993年3月 青森地裁の記者室にて・・・・
青森古文書研究会会長の鈴木政四郎と副会長の佐々木隆次の大きな声が響いた。
「『外三郡誌』の筆者や内容から見て、偽書としか考えられません。書かれた時期は昭和二十年代以降でしょう。これはまちがいありません」
膨大な資料を片手に、記者団に説明する二人の顔は自信に満ちていた。
肝心なことは、二人が「偽書作成」の具体的な時期まで言及していたことだった。

二人は「『東日流外三郡誌』に登場する記述の時代的整合性と筆跡について、古文書の専門家の立場から細かく調査し、分析しました。その鑑定結果です。」と前置きすると、次のように説明した。

 『外三郡誌』が成立したのは江戸時代とされるにもかかわらず、明治以降に作られた新語が出てくる。
 原本から書き写されたのは明治時代とされているが、字体には戦前から戦中にかけて教育を受けた者の特徴が見られる。
 『外三郡誌』と筆跡が同じ一連の和田家文書には、戦後に生産された版画用の和紙が使われている。したがって、文書は戦後に作られたものに   ほかならない。

記者に配布された資料にはこう記されていた。
「つまり、和田喜八郎氏の直筆でなされたものである」 偽書作成者として、和田の名が公の席で明らかにされたのはこれが初めてだった。

             

資料を手に調査結果を発表する佐々木副会長(左)と鈴木会長(右)


さらに筆跡か文章の専門家の証言がほしかった。
そこで浮かんできたのが、産業能率大学教授(当時)の安本美典(心理学・言語学・日本古代史)だった。
彼は、グリコ事件や連続幼女誘拐殺人事件の筆跡鑑定で知られる人物だった。
その一方で邪馬台国論争にも深くかかわっていることを歴史雑誌などを通して知っていた。

古代史と筆跡鑑定に詳しい安本は、まさに偽書追及の急先鋒にうってつけの存在であった。
その安本が『外三郡誌』問題に積極的にかかわり、独自に調査を進めていた・・・
週刊誌の「サンデー毎日」と安本自身が編集責任者を務める古代史専門誌『季刊 邪馬台国』(福岡市・梓書院)にこの件を掲載する直前だ、と安本は語った。

安本は言った。
「いいですか、人間には癖というものがあります。個性とも言いますが、それはその人が書く文字にも反映されます。 
その観点から、私は『外三郡誌』で使われている文字と発見者とされる和田さん自身の文字を徹底的に比較しました。 
その結果、いろんなことがわかってきました。
いちばん重要なのは、『外三郡誌』の誤字と和田さんの誤字が共通しているということです。
例えば『於』という字がありますよね。 これが『外三郡誌』と和田さんの文章では『方に令と書いている(PCで文字が見当たらないので)』と誤って書かれています。
また、『末』も同様に、上から二本目の横棒が長くなって『未』となります。
『陽』『湯』にいたっては、もっと顕著です。 右側のつくりの『昜』が一画欠けて『易』となっているのです。
これは代表的な例にすぎません。 細かく言えば、もっとあります。
「つまり・・・・『外三郡誌』は和田さんが書いた可能性が極めて高いということです」

青森古文書研究会と六百キロ以上離れたところでほぼ同時に行われていた調査は、奇しくも同じ答えを導きだしていた。

              

『外三郡誌』以外に和田さんが発見したとされる一連の和田家文書も、和田さんが書いた可能性が高い。
(「東日流六郡誌絵巻」、「源頼朝の『奉寄』、「安東太郎宗季の『安東船商道之事』などの古文書にも同様の誤字などが見られる)

                     


「東奥日報」一九九三年四月六日
審議論争を呼んでいる「東日流外三郡誌」に新たな疑問が投げかけられている。 文章心理学と古代史の専門家が、東日流外三郡誌は「発表者とされる和田喜八郎氏がねつ造した偽書」とする調査結果を五日までにまとめ、根拠として「東日流外三郡誌」の写本と和田氏の誤字の共通点を指摘。
調査結果は近く専門誌や週刊誌を通じて発表する。 
その他の記事内容は上記した内容と同じなので割愛します。

管理者
それにしても字は汚いし、絵もけして上手とは言えない。小生の感想ですが、嘘の上塗りで相当苦労したことでしょう。これにだまされ多くの歴史家や出版社、町は多くの損害を受けたはずである。
未だに古田武彦氏などがこの歴史を参考に本を出版している、読んだ人はそれは信じてしまいネット上でも、歴史家はこの本を読んだ方がいい!などとすっかりマインドコントロールされてしまっているようだ。 世の歴史家は、この本について偽書として相手にしていません。 小生ももう少し書きますのでよく読んで判断していただきたい。

                     
                     五戸弁護士事務所で公開された和田家文書(1993年5月)


名言をパクル?
このブログの偽書「東日流外三郡誌」の正体1でも触れたがあの福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」の『学問のすゝめ』の巻頭に登場する名言です。

もう記事にするのも面倒なのですが、かいつまんで・・・・

つまり福沢諭吉は「東日流外三郡誌」に書いてあった文を引用したという手紙を和田家に送られたということです。

いつもの通りで、手紙の実物は無く写しがあるというのです。毎度の子供だましですね。
これがその手紙のコピーです。いつもの如く、右上がりの癖字で前記した誤字もありました。

       
       

  真っ向から否定する慶応大学
福沢諭吉研究センター長で教授の西川俊作は・・・・・・割愛
「三千通ある福沢の手紙の中で、一度も使われていない花押が記されていたり、公式記録では六月五日まで東京にいたはずの福沢が、手紙では早くも翌日には大坂から手紙を出したりしています。
そして、自分の著書名を「学文之進め」と間違えるなど、これだけ短い文章の中におかしい点が数多くあります。
”大阪にて飛脚す”と有りますが手紙の三年前の明治五年にはすでに郵便の全国ネットワークができており、書簡が存在するなら郵送していたはずです。
第一、敬語を誤って使ったり、文章の意味がよくわからないなど不自然な個所が多すぎます」


HP管理者
この偽書を信じたいという方は、この記事を1からすべてをしっかり読んでいただきたい。
参考文献にしたこの古本を買って読んでいただければ一番いいのだが、それも大変でしょうから無料のこの記事を読んでください。
和田氏は自分の履歴についても明らかな嘘をついているのですが、その辺はカットしました。
私が書きたいと思っていることは、まだまだこれからです。 本物の歴史家や学者が多くの矛盾をこの『外三郡誌』から証拠を出しているが、それでも信じて新たな書籍が出版されています。
まるでオーム真理教の信者が今でも絶えないのと同じように、次々とこの本の信者が今でも増えているようです。
それでは、参考にした本に戻ります。 現在引用している本は『偽書「東日流外三郡誌」事件』から抜粋しています。



民俗学者で近畿大学民俗学研究所を務める谷川健一の見解

「東日流外三郡誌」は、明らかに偽書であり、世人をまどわす妄誕を、おそらく戦後になってから書きつづったものである。(中略)「東日流外三郡誌」上巻十四ページに次の文章がある。
「依って都人の知謀術数なる輩に従わせざる者は蝦夷なるか。 吾が一族の血肉は人の上の人を造らず人の下に人を造らず、平等相互の暮らしを以て祖来の業とし・・・・」。
元禄十年七月に秋田頼季が書いたとある文章が、福沢諭吉の有名な言葉を下敷きにしているのを見るとき唖然とするのである。(『白鳥伝説』1986年)

その後、谷川は和田家から見つかったとされる福沢の書簡について、さらにこう語っていた。
「嘘の上塗りをするために、和田があらたにねつ造した偽りの手紙であることは明白である」 単刀直入。擁護派にとっては、これ以上ない厳しい言葉だった。

これについては前記事の正体8に記載した通りだ。

『外三郡誌』に対して警鐘を鳴らしている人物としては、谷川の他に偽史研究家の籐野七穂がいた。 藤野は「偽史」という専門の観点から、次のように多くの疑問符を突きつけていた。

「写本」そのものは未公開であり、「偽書」ではないか、という疑いは払拭されていない。 (中略)極端な右上がりの特徴の字癖を持つ現「写本」は、「なぜかほとんど楷書」で当用漢字(旧字は國など極めて僅小)を使用しており、ごく新しいものとしか思えない。(中略)古代・中世の史料としての援用はおろか、江戸期の史料としての使用すら悲観的にならざれをえない
(「東日流外三郡誌」の秘密とその問題点)「北方の楽園みちのくの王国」一九九二年)

また地元の青森県では舌鋒鋭い評論で知られる松田弘州(故人)が、『外三郡誌』の偽書性を厳しく指摘していた。
「東日流外三郡誌」は現代人によって執筆された、現代人のための《偽作・盗作》であった。 
昭和三十年代、四十年代にさまざま執筆された地方史に影響された津軽人が、図に乗って、古文書や金石文に過ぎない。
”歴史物語”をたまたま書き上げたら、そのフィクションがどうしたわけか、「ウソでも、本当らしい」と受け取られ、歴史学会などにも少なからず影響を与え、テレビ番組にもなったが、まともな歴史家はこれをアヤシゲなものと否定した。 
だが、いまだに一部読者の「アヤシゲだがロマンがある」なんていう、ヘンテコな倫理に支えられてているのが「東日流外三郡誌」というものなのである。
(『吉田史学の大崩壊』1991年)



このような批判があることは、擁護派の面々も承知しているはずだった。 それなのに何故、こうした疑惑にほおかむりしたまま、新たな”発見”を宣伝し、マスコミに接触してくるのか、私には大きな謎だった。 それは、ほかの記者も同様のはずだった。
青森市内の古本屋にぶらりと入った。やはり、視線はいつしか歴史コーナーへ向かった。 すると、ある、ある。『外三郡誌』の影響を受けた・・・もしくはそのまま引用した本が、そんな広くもない店内にずらりと並んでいた。
ジャンルは研究書にはじまり、小説、サブカルチャー、コミック、歴史専門誌と多様で、中には有名大学の教授が書いた論文のようなものまで交じっていた。
地方、中央の出版社が競うようにして、『外三郡誌』を商品化しているのは壮観でもあった。
『外三郡誌』が1975年に『市浦村史資料編』として世に出て以来、二十年間にいかに広く、しかも深く、日本列島に浸透していたのかを改めて思い知らされた。
また『外三郡誌』は歴史業界の中で金になる木なのだな、と実感した。真相論争の側面の一つがおぼろげに見えてきたような気がした。

『謎の東日流外三郡誌』(佐治芳彦)
『津軽出雲 縄文神の血族』(志茂田景樹)
『津軽古代王国の謎』(佐藤有文)
『真実の東北王朝』(吉田武彦)
『日本超古代王朝の謎』(鈴木旭)
『東日流外三郡誌の旅』(小舘衷三)
『東日流外三郡誌と語り部』(佐々木孝二)
『白鳥城物語(長尾まり子)
『古代天皇の秘密』(高木彬光)
『竜の柩』(高橋克彦)・・・・・・

教科書に載っていない、本当の青森の歴史を知りたい(又は東北の歴史が知りたい)という人が多いですね。
面白いことに、偽書騒動が新聞に頻繁に出るようになってから、よけい売れるようになりました。 購買層がそれまでの一部のマニアから一般の人へ広がったんじゃないでしょうか。
偽書騒ぎさまさまですね。
『外三郡誌』関係の書籍は雑誌類も含めて百三十冊を超え、二十一世紀に入ってもその出版ベースに衰えないという。 驚くしかありません。

管理者
売れる本だから・・・もうやめて欲しいですね。私がこんな面倒な事を記事にしているのは、東北の歴史に興味を持ち楽しもうとしている古代史好きの読者を自分の利益にするのは・・・。

私もその一人になっていました。隠された真実があるのではないか? 
そうしたら歴史は面白くなる。こんな歴史が本当だったらいいな! そう思ってしまいました。
この偽書は、誰でも知っている本当の史実に付け加えて想像を膨らまし嘘を貫いたのです。
しかし本物の歴史家は単純なミスに気が付き相手にしなくなります。
しかし、この事件すらわからない世代にとっては新しくロマンに満ちた歴書に見えてくるのです。もちろん私も・・・
近くの歴史書を書いている人も、あれは偽書だから・・・と問題にしません。  
そこで私は、どこが偽書と言われるのか調べるようになったのです。 そうしたら何もかにもが嘘だったわけでした。
私は仕事でよく平泉を訪れていました。 以前はあの国道の脇に「安倍一族の墓」という大きな看板があったのです。 
それがある日突然無くなりました。 つまり偽書の作者に騙されて町では墓まで作っていたのです。偽物とわかり看板を外したのでしょう。
 私は調べていて「そうだったのか」とその状況が一致しました。
それはのちほど記載します。  この本が真実に思われた原因の一つは、公的な本として、市浦村の資料編になってしまったからでしょう。
公的な場所が歴史書の史料に使ってしまったことは大きな間違いでした。 今は公開していません。
これについても、各書籍の中で詳しく述べていますので、引用してここに記事にしたいと思います。 



地元、五所川原市飯詰地区の人々は・・
「実を言うと、私たちは、『外三郡誌』がここまで大きくなるとは思っていなかったのです。 甘く見ていたんですね。 他の地区の人達から”こうした疑惑があることを知っていながら、なぜ放置したのか。恥ずかしい”と言われ、返す言葉がありませんでした。その通りだからです。 
飯詰に住む人たちはみんな、和田さんの家が江戸時代の文書が伝わるほど古い家柄じゃないことを知っています。 
もちろん和田さんの親類もです。
 私は和田さんの字を知っているので、彼の筆跡は一目見ればわかります。とても特徴がありますからね。 
かなり前のことですが、和田家文書の写本と呼ばれるものを見たことがあります。 残念ながら、彼の筆跡でした。

 これでは駄目だと思いました。
『外三郡誌』自体も、少しの歴史の知識があれ人なら、おかしいと思う内容です。
逆にあまりにもお粗末すぎるために、だれも取り合わなかったのかも知れません。そうした面倒くさいことには関わりたくないという曖昧な姿勢が、この問題を大きくしたのかも知れません。



ねぶた師の”告発”

じつは『外三郡誌』に絡んでちょっと興味深い話があるんです。 和田家文書の一つに『東日流六郡誌絵巻』というのがありますよね。 あの中に出てくる挿絵が、ある画集からの盗用なんです。

『東日流六郡誌絵巻』に掲載されている挿絵が、昔のカラー画集の絵と酷似している。 その画集は日本史の名場面をまとめた『國史画帖大和櫻』(こくしがちょうやまとざくら)と呼ばれるもので、一九三五年に東京の省文社から出版された。
酷似しているのは、画集に掲載されている絵六十一枚のうち二十枚以上。
ねぶた製作者として知られる千葉作龍(青森市)が気付き、「盗用である」と指摘している。
千葉と言えば、青森県に住む人ならばだれでも知っている「ねぶた師」だった。
武者絵をねぶたのモチーフに使うねぶた師たちは『國史画帖』のような歴史に題材をとった画集を参考資料にするんだそうです。
偽書騒ぎが起きてから『東日流六郡誌絵巻』と見比べてみてびっくり。これはほうっておくことができない思ったらしいです。

問題の『六郡誌絵巻』とは『東日流六郡誌大要』『東日流六郡誌考察図』など和田家文書とされるもの十巻以上を一冊にまとめたもので、1986年に弘前市の出版社から発行されていた。
簡単にいえば『外三郡誌』の姉妹編のようなもの。

笑ってしまうほど真似て書いた事が素人でもわかる。私だったらもっと上手にかけますよ。管理者

  

これは、一連の和田家文書が偽書だという有力な根拠になります。

こんな本を信じる価値はゼロですね。夢中になって古代史好きになってしまった読者に謝罪してほしいところです。管理者



現在引用または編集している参考文献は《偽書「東日流外三郡誌」事件》からです。
分の中で・・・『私』と記載している部分は=(著者:齊藤光政)東奥日報社編集委員

挿絵

各方面から次々と伸びる偽書追及の手に、見えてくるもの・・・それは百聞は一見に如かず。 絵は文章以上に説得力を持つとされるがそれは偽書問題でも同じだ。
「東日流外三郡誌」の挿絵盗用疑惑はまだまだ拡大する可能性があった。
古代史研究家の齊藤隆一(福島在住)を取材して明らかになった。 齊藤氏は言った。
「『外三郡誌』は『國史画帖』以外からも絵を盗用しているようです。


        これを見てください。
      
      
左がタイム・ライフ・インターナショナル社が1969年に出版した『原始人』(クラーク・ハウエル著、ラディー・ザーリンジャー絵)という本で
右が八幡書店版『外三郡誌』の第一巻に出てくる日本列島の原人や先住民の図である。そっくりですね。


編集者の衝撃の証言

証言者は弘前市内の中心部に近い、年季の入った木造住宅に住んでいた。 山上笙介。弘前市の拠点を置く新聞社「陸奥新報」の編集部次長、常務取締役を歴任した後に退職し、執筆業をこなしながら悠々自適の生活を送っている人物だった。
県内唯一の国立大学である弘前大学の國史研究会会員で、複数の市史編集委員を務める山上は郷土史家としても広く知られ、多くの著作があった。
そんな地方の著名人が『東日流六郡誌絵巻』に直接かかわっていたと聞いて、私は驚いた。
 山上は和田家文書にかかわることになった発端から話始めた。

「弘前市内の出版社(津軽書房:筆者注)の代表からひとつづりの原稿を渡されたのが、発見者とされる和田さんとの間接的な出会いでした。
出版社からは”内容は面白いけど文章がひどい。手を入れて本にしてくれないか”と頼まれました。
黒いボールペンでびっしり書かれた原稿は文字も内容も非常に特徴的で、一目見れば忘れられない代物でした。
一読して、当時評判になっていた『外三郡誌』を、和田さん自身が口語文で書き直したものだとわかりました。
何やら難しいタイトルがついていましたが、「東日流蝦夷王国」と改題して、1983年に出版しました。もちろん、和田さんの著作としてです。
ところが、これが予想外に売れて。内容がでたらめでも、日本の正史を、津軽の闇の歴史の視点から批判しているということで評判になったんです。
『東日流六郡誌絵巻』にかかわりを持ったのは、それから二年後の1985年のことです。 「東日流蝦夷王国」の売れ行きに気を良くした和田さんが出版社に本にまとめて欲しい、と和田家文書を持ちこんだのです。 この時初めて和田家文書というものを目にしました。つづり本を含めて十五巻ありました。 一見、古文書風でしたが確認のため、古文書に詳しい市内の知人に紙質を鑑定してもらうことにしました。 すると”明治かそれ以降のもの”という結果でした。
そのことを和田に問い合わせると、”原書の成立は江戸後期だが、ここにある現物は明治時代に書き写されたものだから当然だ”という返事だったので、とりあえず納得して編集作業に入りました。
ところが、それからがひどくて・・・・」

「それからです。大きな疑問に突き当たるようになったのは。 本物の近世文書に加筆し、文章を改竄したような跡が見られたのです。そして何より最大の疑問は、古文書の筆跡と和田さんの筆跡があまりにも似ているということでした。
和田さんから本につけるあとがきのようなものをもらったのですが、そのボールペンの字と古文書の毛筆の書きが」とても似ていたのです。
口語体と文語体の違いはありましたが、使っている単語や言い回しもそっくりでした。 それが、あなたが聞きたいという『東日流六郡誌絵巻』だったのです。

代々伝わる文書を読むうちに字まで似てくる・・・・。 和田の訴訟代理人を務める五戸が説明したのと同じ理屈だった。
そんなことが本当にあり得るのだろうか? 疑問を投げかける間もなく山上は続けた。

そして、和田家文書をめぐる奇怪な出来事が起きたのは、『東日流六郡誌絵巻』に続いて刊行した『總輯 東日流六郡誌(そうしゅうつがるろくぐんし) 全』(1987年刊行)の編集作業にあたっていた時のことだったという。

「この時、持ち込まれた和田家文書も『東日流六郡誌絵巻』の時と同じで、文字と用語は和田さんの肉筆とそっくりでした。内容的にもひどいものでした。
本物の古文書もありましたが、それは和田家とはまったく関係のないもので、それに書き加えることで、さも和田家文書のように見せているのです。偽造、変造文書のたぐいです。それが続々でてくるのです。

はなはだしい例としてこんなことがありました。 
私が”この文書とこの文書の間が抜けている。つながりになるような文書がないか、探してくれ”と和田さんに言うと一週間もすればちょうどぴったりの文書をホイホイ出してくるんです。信じられますか。 こりゃあ、駄目だと思いました。

歴史上、存在しない津軽藩の役職名なども平気で出してくるのですから。和田さんが無理して新しく作っていたのです。
当然、出版社には刊行を中止するよう申しいれましたが、時期的に手遅れでした。 結局発行部数を最小限に抑え、初版が売り切れ次第、絶版とすることにしました。 私はそれ以来、和田さんと和田家文書とは一切関係を断ちました。

「門外不出」とされ、専門家ですら見ることがままならない和田家文書。 その文書と発見者とされる和田家の内筆を同時に手にし、目にした山上の証言が持つ意味は重かった。
山上は文書と和田の筆跡が類似していることに気付いた最初の人物である可能性が高かった。

疑惑はその後の『總輯 東日流六郡誌 全』の編集作業を通して深まり、最終的に和田さんの制作と確信するに至ったのです。じつは、『東日流六郡誌絵巻』については、最近の制作ではないかと、私が所属する弘前大学の國史研究会のなかでも話されていました。
 こうした『國史画帖』というはっきりした種本が突きつけられればもう、和田さんも言い逃れはできないでしょう。 私は今では、和田家文書全体を偽書とみます。
現代人が歴史の本や論文などからいろいろな話をピックアップし、これに筆を加えて都合よくまとめた創作物。
それが、「東日流外三郡誌」をはじめとする和田家文書の実態だと思います。


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《「東奥日報」1993年12月5日》
「東日流六郡誌 和田家文書に新たな疑惑」
「國史画帖」の流用?」
「絵巻の挿絵35枚が酷似」
 ユニークな古代、中世史論を展開する「東日流外三郡誌」の真偽論争が全国の歴史ファンの間で加熱する中、和田家文書に新たな疑問が浮かんでいる。
文書の一つである『東日流六郡誌絵巻』に対して、県内の歴史愛好家らが「同絵巻の絵は昭和初期の画集からの流用」と指摘しているもので絵巻を編集した郷土史家はその可能性を認めている。
本県に端を発した論争は新たな展開を見せそうだ。


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ひとつの幻

和田家文書の詳細をよく知る立場にある編集者自身が、和田家文書の偽書性を証言した波紋は大きかった。 その後、この私の記事が各種の雑誌等に転載されたことでもそれがよくわかる。
 そして私の取材からちょうど一年後。 各方面の疑問に答えるように、山上は古代史専門誌の『季刊 邪馬台国』に、和田家文書は現代人の創作物で偽書ーと主張する文書を寄せた。
タイトルは、「『東日流誌』との遭遇と決別」。 その時点での山上の立場を明確にするものだった。
『季刊 邪馬台国』は『外三郡誌』の偽書問題を勢力的に掲載していた。 この文章の中で、山上は「ひとつのまぼろしを見る」として、和田家文書の成立過程を一人の関係者の視点から推理していた。

つくりあげた文書に、煙や薄墨などを用いて古色をつける。 線香の火で、虫喰いも模造する。 本物の文書を手に入れて、切り取りし、加筆するなど、都合よく変造する。
こうして、いろいろな雑多な、時代がかった「古文書」群が出来上がった。
青年は、これらを、江戸期・明治期、さらに、もっと古い時代のものと偽って、売るようになる。 
または無償で提供して、「実費」や謝礼をもらう。

骨董のたぐいも、同様に手がける。 これは古道具屋などで入手したガラクタや新作物に、適当な説明をつけた。
 青年は壮年になり、初老にいたる。 この歳月のうちに、作成した「古文書」類は、膨大な量に達した。
この量がまた、「個人では不可能な仕事」と世間に錯覚をいだかせる。 しかし、十年、二十年をかければ、たった一人だけでも、出来ないことはない。
なぜならば、その文字と文章は、きわめて粗雑であって、用語の正誤や文法を気にしない、書き飛ばし、たれ流しである。
一篇をつくるのに、たいした時間を必要とすまい。(中略)こうしたおぞましい偽文書は、現在もなお、ご本人の必要、または、他からの注文に応じて、制作され公表されつづけられている。


「文章も文法も滅茶苦茶で、拙考、醜悪の限りをつくしている。 偽書としては五流の偽書、つまり最低の偽書である。 その絵も同然である。
ニセ骨董品屋も引き取らないような偽書を本物と思いこむのは丸太棒を呑み込むように難しい」
(『季刊 邪馬台国』五十二号、1993年)

一方、これは真偽論争が本格化した1993年に、民俗学者の谷川健一が『外三郡誌』を評した言葉である。 「五流の偽証」とは、学問に厳しい谷川らしい指摘だった。


揺れ動く市浦村

ある日、編集局長(当時)のKから意外な事を言われた「偽書問題で市浦村が揺れているらしい。困っているといって来ている人もいる」
「地元の村役場幹部から」編集のトップである編集局長に”直訴”しているところに、市浦村役場の困惑と問題の根深さを感じた。

市浦村役場は『外三郡誌』を公的資料として刊行した偽書問題の”当事者”でもあった。
「東奥日報に”SOS"を発してきた村役場幹部は、1975年に『外三郡誌』が「市浦村史資料」として刊行された際編作業に携わった一人だった。

『村史資料編は』、和田さんが持っていた『外三郡誌』三百六十八巻のうちおかしいなというものを除いた約百二十巻で作りました。
最初に渡された文書は良かったのですが、だんだんいい加減なものが目立ってきたからです。 [資料編というタイトルでわかるとおり、私たちはこういうものがありますよ、世の中に紹介することを目的に出版を考えていました。
関係者の間では、当初から『外三郡誌』に対しては、”荒唐無稽”と首がかしげる人と、”これは立派な内容だ”と受けいる人の二種類がいました。

偽書、真書という議論は今に始まったことではなく、出版時から出ていたということです。
『外三郡誌』に対する疑念は編集当時からすでにあって、それを承知で出版したというのである。 すべての事業を税金でまかなっているはずの公共機関が、である。

明かされる出版秘話

青森市から、北西へ車を走らせること二時間余り。市浦村は日本海に面した小さな村である。  
遥か昔、安東氏が北方交易の拠点とした土地として伝えられるが、その栄光を想像させる施設は、今はほとんど残っていない。

市浦村で関係者らの取材を重ねているうちに浮き彫りになってきたのは、『外三郡誌』の出版に至るまでの不思議な経緯だった。  
それは実に興味深く、奇妙な話だった。
市浦村役場が『外三郡誌』にかかわるようになったのは、白川治三郎村長時代(1791~83年)のこと。
村長と『外三郡誌』の発表者とされる和田、そして復数の編集委員は以前からの知り合いで、骨董品のやりとりなどを通して付き合いがあったという

1972年(昭和47)頃、五所川原市から大変なもの(古文書)が発見されたという噂が五所川原周辺に広がったが、それが後の『外三郡誌』だった。
それに絡んで、和田家から安東氏の秘宝の隠し場所が書かれた文書が見つかったという話も持ち上がり、一部では秘宝探しの動きが出たという。
当時、噂の文書を見た人によると、表紙には「安東文書」と書かれ、その後有名になる「東日流外三郡誌」とは、そのころ呼ばれていなかったという。

和田家文書の信憑性を確かめるため、村役場は村史編集委員会を結成する前に、安東氏の秘宝の現場調査を行ったが、大きな成果は収められなかったという。
このように和田と村長、複数の編集委員をつなぐ個人的な関係の中からいつしか生まれたのが、『外三郡誌』を村史に取り入れようという計画だったという。

当初、編集委員は十人ほどで和田もその一員だった。 和田は『外三郡誌』が外部の目に触れることを極端に嫌がったため編集委員会は文書を一時借り出してはコピーし、そのコピーを原資料として使ったという。

文書はB5判ほどの大きさで和田から一回に渡される文書はそれほど多くなかった。
『外三郡誌』の編集責任者に指名されたのは、十三湊の歴史に詳しい地元の郷土史家、豊島勝蔵(故人)だった。 地元の小学校の校長も務めた実直な豊島は、編集委員会から渡されたコピー文書を原稿化した。 文書の中にはコピーに交じって実際に筆で書かれたものもあったという。 
和田から渡される古文書については、編集委員の間でもいろいろ話題になり、「墨が新しくて当て字が多い。何より文章の形式が古いものではない。おかしい」との指摘があったという。

しかし、大勢を占めたのは「うそか真実かわからないが、とにかく面白い記録」という受け止め方だった。
もともと、『外三郡誌』は村史の参考文献として付け加える予定だった。 ところが、編集中に一足先に出版されたお隣の「車力村史」(1973年)に、門外不出であるはずの『外三郡誌』の一部が掲載されていたから、関係者は仰天した。

先を越された以上は、『外三郡誌』を大きく扱うしかないと方針を転換し、単独の『資料編』として出版することに進路変更したという。編集委員会の話し合いによって「文書のすべてを出し学者に批判してもらおう」ということで態度を決めたという。

結局、出版まで要した時間は約5年、文書の所有者である和田に対しては、村役場から謝礼が渡されるとともに、「和田は村活性化の立役者」という声すら上がった。
しかし、出版後に多数の専門家から問い合わせや厳しい指摘を受けだしてから、編集委員たちも疑問を強く持ち出し、出版元の村役場も困惑。 そして・・・というわけだった。

 津軽半島の寒村をどうにか有名にしたいという切ない「村おこし」の気持ちと、人間なら誰もが持っているささやかな「功名心」。
それが複雑に絡んで生まれたのが、「市浦村史資料編「東日流外三郡誌」と言えそうだった。

実は郷土館長当時に、お名前は忘れたが安東の『古文書』だ、といい五冊ほど持ってこられて、之は津軽で最も古い物で安東の事を細かく書いてある。
当時の津軽は上方政府と違う「国」としての盛力者の安東がいたのだ、この古文書に書いてある。
これを津軽の歴史として認めてくれと言われた。
三冊程手に取ってみた。 文字の書き方や文面はそれほど古くない。紙質にしても何百年も前に感じられなかった。

珍しい古記録ですネ。歴史的資料かどうかと言うことは、専門的な鑑定と内容点検が必要ですから、京都大学にお願いして、歴史的資料として良いか見て貰います。
ですから初めの方二冊、中間で一冊、終わりの方で二冊、五冊ほどお貸しくださいませんか?  
預かり証も行政責任者と私の印を押してお渡しいたします、責任を持って取り扱います。
文章、字体、スミや書質は、年代も明らかになるし、内容は専門的ですから見抜くことも出来ますからと言った。
持って来られた人は、そんなことまでしてでなければ認められない貴重なものだ、と言い、サッサと風呂敷に包んでしまわれた。(中略)
その後、三群誌と三群誌絵図を購入して京都大学へ寄贈、送本した。

一ヶ月程経ってから返送されてきた。 半紙に、こうした事に興味を持たないで「近世・近代」を積極的に勉強する事を祈ります。と三十字程のお便りでした。(『津軽魂を潰した人々』1992年)

つまり、謎の男は五所川原市郷土館の公的な”お墨付き”だけを欲しかったのでしょう。貴重な本ならば、京都大学で正式な鑑定を受けさらに史料価値を上げたくなるはずだが、この男は逃げた。 


編集者の証言

その『安東文書』なるものをじかに目にし、手にとっていた人物がいた。 当時、青森県立図書館に勤めていた三上強二だ。それも、当時和田の自宅居間でだ。
それは、紙も墨も新しく、古文書としての体裁をなしていないお粗末なものだったいう。
 三上は思い出す。
「村長の親類から”有る文書を見てくれ”と頼まれて和田さんの自宅を訪ねたんだ。そうしたら居留守を使われてね。
そのまま帰るのもしゃくだから、”待たせてもらいましょう”と居間に上がって待っていたら、和田さんがやっと出てきたんです。

そこで見せられたのが『安東文書』なるもの。 最初に出てくるのが安東氏の系譜で長髄彦うんぬんという下りが出て来て、水軍の話になる。
思わず笑ったのが、この軍船の絵。 北欧のバイキングの船そのものなんですよ。 
だから和田さんに「安東時代に、少なくとも日本でこんな船は造られていなかったはずだよ」と指摘しました。

そして、ずっと見ていって気付いたのは、紙と墨が合わないということ。 墨がなじんでいないんだな。 私も図書館に三十年間いましたから、古文書を見る機会には恵まれていました。
だから墨と紙の整合性、文体などがわかるわけで、”これはおかしい。まったくあっていない。信憑性が無い”と言い放ったわけですよ。
何より、表紙の『安東文書』の墨書きが何より和田さんの字でしたから、それで駄目だと・・・・
その時点ですでに、村長グループに、この文書のコピーが渡っていたのでしょう。

三十年以上過ぎた今でも、三上の脳裏にありありと浮かぶのは、”偽書”と指摘した時の和田の悔しそうな顔だった。
編集当時、同じ内容の部分が数か所もあり、年号もそれぞれに違っていたりして”変だな””変だな”とは思っていました。そう思いながらの作業だったのです。
『外三郡誌』が”嘘”だと気づき出したのは、発刊後の事です。 多数の人から問い合わせがあり、専門家から指摘があったからです。

<以下省略>

市浦村史は現在公開されていないようです。 この件についてはこの辺で終了します。 
どう考えても、『外三郡誌』関係の文書は和田氏が書いた事は紛れもない事実に思われます。 あの右上がりの癖字は、素人が見ても同一人物にしか見えません。



この偽書にはうんざりしてきましたので、短縮して書きたいと思います。

和田の元から新たにご神体が一つ、四柱神社(ししゃ神社:田沢湖町生保内地区)に加わったと人伝えに聞いていた。
それは「三千年前の遮光器土偶」とされていた。
佐々木(田沢湖町の旧家の当主)は、和田さんの説明によると、その遮光器土偶はつい最近、安藤氏の秘宝がある石塔山荒覇吐神社の洞窟から出てきたもので、出土した十二個のうち無傷の一個をよこすということでした。
青森県の鑑定もあるとのこと。 そんな貴重なものなら無料でもらうわけにはいかないということで、青森県の鑑定料にあたる七万円を支払った。
遮光器土偶を受け取りに行った氏子たちは、本物である証拠に見つかった洞窟を見せてくれと頼んだが案内してくれなかった。

ながながと書きましたが、結論は偽物でレプリカとわかりました。石塔山荒覇吐神社も作りものものですが。

   



   



   




   



   



    


    この写真が露見することを恐れた和田は写真を譲るように求めた


    

  
    上記の写真を見れば石塔山神社も偽物だということがわかります。本物のあらはばき神社に失礼ですよ。

  


   新郷村にあるという「キリストの墓」 
  実は、村興しのために嘘の伝説を受け入れたが始まりだった。
  下の写真は、鹿角のストーンサークルに行った時に撮ったものだが、古代史に興味が無かった頃から気になって知ってはいた。
  バスガイドさんもここの伝説をお話する方もいる。
  

 



 

 

 ネット上には、この「ナニャドラヤ」の歌の訳もあるが、もうどうでもいいので紹介しません。

 こんもりと盛られた土の小さな丘二つ。
一つはキリストの弟イスキリの墓だそうである。墓守りの古老の話ではヘライというこの土地の名、民謡の歌詞ナニャドラヨーなどヘブライ語に非常に似ていること、昔、子供の頃に炭で十字を書き入れたという風習、語源がどこにあるかわからない多くの言葉、加えてキリストがこの地に生存したということを記した文献がはっきりあるという事実など種々の信じがたい話をしてくれた。

「歴史上、キリストはゴルゴダの丘で十字架に磔にされ、そこで死んだということになっている。 でも本当は違うんだ。
弟のイスキリが身代わりになったんだな。 窮地を脱したキリストは東へ東へと逃れ、ついには日本にたどり着いた。それが八戸だ。
八戸に上陸後、キリストは居を戸来に定めて地元の女性と結婚し、幸せに暮らしたそうだ。 だから、戸来の中には今でも時々、白人のような顔つきをした人が現れる。キリストの名残りだ。 キリストの身代わりとなったイスキリの頭髪と耳を戸来に埋めてねんごろに供養したがそれがいまに残る墓なんだそうだ。 戸来にある二つの墓はキリストとイスキリのもの、そういう事なんだ」

驚くことに、昭和の産物であるはずのキリスト伝説が、江戸時代に編纂されたとされる和田家文書にもしっかりと登場しているとなると・・・・・。
それが明らかにされたのは、1994年4月下旬に奈良市の奈良大学で開かれた市民参加型の公開シンポジウム「東北王朝・東日流外三郡誌偽作事件」(ヤマタイ国研究会主催)でのことである。

シンポジウムでは、「東日流外三郡誌」をはじめとする一連の和田家文書が「昭和の知識で書かれた現代人の製作である」と改めて報告されるとともに製作の際に使われたと考えられる「種本」の存在まで具体的に列挙された。
「外三郡誌」問題は新たな段階を迎えようとしていた。

奈良大学を会場にシンポジウムが開かれ、全国から古代史の研究家やファンら百人以上が詰めかけた。
東北を拠点に吹き荒れる嵐が、古代史の分野で無視できないほど”巨大化”してきたことから、急遽シンポジウムを開くことになったのだ。
嵐の名はもちろん「外三郡誌」偽書問題だ。


一連の和田家文書は、昭和以降の知識で書かれているという特徴があります。
ですから、江戸時代に書かれたというのは真っ赤なウソなのです。

その最たる例が青森県のキリスト伝説です
キリスト伝説は1935年に創作された作り話です。  それなのに、和田家文書には寛政六年(1794)の情報として載っています。

キリスト伝説が登場する和田家文書は『奥州風土記 全』。 このなかの「戸来上下大石由来」という項に次の記載があった。

   戸来邑にてはキリストの墓など奇相な遺跡ぞ存在す
                   寛政六年七月二日 秋田孝季

新郷村の戸来地区にはキリストの墓という変わった遺跡がある、とはっきり書かれている。
ところが、である。原田によると、キリスト伝説が降ってわいたように戸来地区(当時戸来村)に出現したのは、前途のようにたかだか七十年ほど前の1935年8月のことで、江戸時代以前などではなかった。
きっかけをつくったのは、古代史マニアの画家、鳥谷幡山(とやばんざん)だった。
鳥谷はその前年の1934年、村役場の招きで十和田湖に隣接する迷ケ平(まよがたい)を見て回っていた。
しかし迷ケ平は村内の西端にに位置する高原で、村役場は十和田八幡平国立公園の一部にともくろんでいた。
しかし、不幸にも選定から外されてしまった。 このため、村役場が次善の策として思いついたのが、観光資源・迷ケ平の大々的な売り込みだった。
その宣伝役を仰せつかったのが鳥谷というわけだった。
鳥谷は日本にもピラミッドがあると信じ、村内にある大石神山がそうだろうと考えていた。
和田家文書の表題にある「戸来大石由来」とはこの大石神山のことを指していた。  鳥谷は村役場と相談した結果、天津教という新興宗教の教祖である竹内巨麿に白羽の矢を立て、大石神山がピラミッドであることを竹内に確認させようとした。
竹内を呼んだ理由は簡単だった。 天津教の教祖に代々伝わるとされる古文書で、教典と位置づけられている「竹内文献」にある。 
この中で日本はかつて世界最高の聖地であり、キリストをはじめモーゼ、釈迦、孔子、マホメットらが来日したと説かれていたからである。 いわゆる「聖者来日伝承」である。

戸来を訪れた竹内は、鳥谷らとともに大石神山を視察した。 すると、竹内は大石神山の麓の集落にある二つの盛土の前で突然立ち止まり、「やはり、ここだ」と騒ぎ始めた。
その後、
竹内は教団本部に戻り、神宝である「竹内文献」のなかからキリストの遺言が見つかったと発表し、戸来の盛り土がキリストの墓だとした。  これがキリストの墓”発見”のいきさつだった。
それまで、戸来にはキリスト伝説などなかったのに!!!である。


私の意見だが、笑ってしまいますね。キリストの遺言だとか、ただの盛り土をキリストの墓だとか・・・・
竹内文献を読んだ人はまじめにそう思っているのでしょうか?? これでは偽書と言われてもおかしくないですね。


竹内が二つの盛土の前で「ここだ」と大げさにうなずき、村長に「ここには十来塚と記しなさい」とご託宣を行ったという経緯がよくわかる。
その根拠となったのが「だれにも見せない古文献」である「竹内文献」だった。
村長は、このご託宣こそが村起こしの絶好のチャンスと飛びついた。
こうして世にも不思議なキリスト伝説が、それまでほとんどの日本人が耳にしたこともなかった東北の寒村で産声をあげたのだった。

それから二年後
早くも山根菊子が著書「光は東方より」で戸来を東方の聖地にまつり上げ、一躍有名にした。
山根は聖者来日伝承を研究していた。  さらに二年後の1939年には、ドキュメンタリー映画「日本に於けるキリストの遺蹟を探る」が公開された。
映像が持つ宣伝効果は大きかった。



映像や活字は、誰もが信用してしまいますね。 視聴率や販売部数を上げるには面白味や話題性が大事ですからね。
東日流外三郡誌もTVに取り上げられましたが、後日、謝罪の放送があったようです。




村が騙された
    岩手県衣川村

衣川村とは、わかりやすく言えば、世界遺産の平泉に隣接する街で、あの大河ドラマ「炎立つ」の舞台でもあり、または衣川の合戦は弁慶の立往生でも有名な戦地でもある。平泉は源義経最期の地でもあり、歴史のネタは豊富である。

この地で、前九年の役・後三年の役という戦いがあった。内容は省略しますが、つまり国府軍と安倍氏の戦いである。
この話は敢えて小生のブログでもHPでも語っていない。 なぜか? それはただ長くなるからです。
登場人物も多いし家族関係も複雑化していしてゆきます。

話はそれましたが、ここでの問題は、その安倍氏の墓に関する問題でした。
以前にも書きましたが、今から16年程前に自分は仕事(旅行・バス)の関係で週に一度は平泉を訪れていました。
その時、間違いなく大きな看板で「安倍一族の墓」とあったのです。
いつか個人で行ってみようと考えていましたがいつのまにか消えていたのです。
その理由がこの本で知ることになりました。

簡潔に話せば・・・・


「安倍一族の墓苑」(撮影:安倍義雄 1988年6月)


この安倍一族の墓ににあった遺骨は、クジラの骨だったのです。


掘り起こされた骨壺。中に入っていた「安倍頼時の遺骨」は、その後の鑑定でクジラの化石であることが判明した。

平安時代中期の前九年の役(1056~1062)で源頼義に敗れ、鳥海柵(岩手県金ヶ崎か宮城県鳴子町といわれる)
で討ち死にしたとされる蝦夷の首長、安倍頼時の遺骨と称するものを調べてみたら、なんとクジラの骨だった、というのである。

この大問題にも外三郡誌の和田が深くかかわっていた。 
頼時の直系の子孫とされる安倍義雄(東京都府中市)さんは、「もう頭にきました。先祖が侮辱されたようで腸わたが煮えくり返る思いです。以前、衣川村をたまたま通りがかって、「安倍一族の墓苑」という看板を目にした時からおかしいなとは思っていたんですがね。こういうのを歴史の歪曲、改竄というのではないでしょうか。一種の犯罪行為です。
名誉棄損です。先祖である頼時の骨をネタに、善意の関係者をだましたことは絶対に許せません」


外三郡誌の和田は、頼時の骨とされるものを石塔山荒覇吐神社から「分骨した」と言っている。
安倍氏は金ヶ崎で亡くなったのに、五所川原の聞いたこともない石塔山などという神社にあったとは初耳だ。

こんな話を書くのも腹立たしいので、この辺にします。

この墓苑には一千万円以上の経費がかかりました。
村がだまされたのです。




この骨なのですが、人間の骨ではなく、古代のナガスクジラの耳周骨(ペリオティック)の化石との判定だった。

和田の著書「知られざる東日流日下王国」の中に登場する「津保化族の骨片」。と全く同じものであることがわかる。



長々と書きましたが、これでこの記事は終了とします。


あなたはそれでも、東日流外三郡誌を信じますか?


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