定義如来 平貞能 平家の落人の里 大倉とは 


   大倉の地
    仙台藩の領地になるまでは、この部落の人々は平氏を偲び他の部落との縁組を許さず。
    純血を守ることに平氏の誇りを感じていたのです。
    明治初年にあたりにこんなことがあったそうです。
   村芝居が行われていた頃定義に舞台を一の谷合戦記を上演した時、あちこちから物が投げられて遂に
   中止させられたり上演中舞台が急に倒壊したこともあったといいます。
   それ以来定義では芝居の上演は止めたそうです。

   さて、この地を一般的に大倉と言いますが、厳密には大倉部落があります。
   伝説には、鎌倉源氏の子孫大倉蔵人重義を始祖とする大倉家が故あって遠く陸奥の地に逃れこの地大倉の山里に
   隠棲したとあり、平家落人と「お互い仲良くしよう」と申し合わせたという語り伝えが残っています。

   また、定義如来入り口(国道48号線)の近く作並方面に行くと新川(にっかわ)というところがあります。
   そこには、源氏の勇将源義経の奥州下りの道中たまたま平家落人平貞能と出会い、敵味方なく睦まじく夜を明かしたと
   言う伝説の「ほととぎす塚」があると言う。

   また、時代は下って戊辰の役、義勇軍(からす組)隊長仙台藩細谷十太夫や奥州鎮撫の参謀、長州藩の世良修蔵を
   斬殺した志士が厳しい追及に一時隠れ住んだのが天狗茶屋とか・・・・定義温泉とも伝えられています。


 ぢゃう義道

   定義の里に通じる道には、白木部落、矢籠、青下、大倉とありどの道も山道で峠や峰を通っている。
   定義の里と合わせて五部落がこの道で結ばれていて密接な連絡がとれていた。
   これは、防備の為に五人の従臣を配置し前線基地として固めたものと思われます。
   その道端には、いくつもの石碑がいたるところに置いてあるが、その一つに「左ぢゃう義道」とかかれた道標があります

    
              ↑左から2番目です。


          

      この石碑は安政四年の物のようです。
       しかし、この石は昔は、北谷地から白木部落にあったもののようです。
       確かにこの分岐の左は旧街道ですが、崖崩れが多く今は不通です。
       それは、さておき、先人達はこの道を歩いていたのでしょう。
       かつては古街道としダムを横断した岩出山街道または、秀衡街道と呼ばれていた古い道があったのです。
       伊達家が岩出山に居城していた頃は、山形方面への軍道としての最短通路で通行人も多かったと聞きます。
       また、奥州藤原の平泉文化が最上へ流入した道としても考えられているようです。
       これらのダムをおうだんした道はダムの水底になってしまいました。
       水没した村は栗生部落20軒、日向部落が40軒で合計60軒でした。
       
                 
                   大倉ダム

       ダムに水没したものには天狗橋と天狗茶屋があります。この天狗茶屋は古くから親しまれて来た店で、
       由緒ある桂清水を利用して「ところてん」の商売を始めたのが初代の天狗茶屋の女主人です。
       初代は慶応二年生まれといいますから、古くからあることがわかります。
       名前等々二代目などもわかりますが、現代は個人情報のこともあるのでここでは割愛します。
                
                  
                    創業300年の文字が・・・・・

       今は、車社会となりここは通過地点となり衰退していったようです。
       私は、以前から気になっていた仙台から定義如来までの徒歩での参詣ルートを行って見ました。
       今回の参考資料にしました「秘境、定義谷」著者・西村勇、発行:楽山西方寺の本の中にこんな唄がありました。

      「定義如来参詣道中唄」です。 明治初年の頃の唄のようです。

       ♪時は旧七月六日のことよ、定義詣りと二人連れ
       
八幡町を後にして落ち合茶屋にて腰をかけ
       これこれ花ちゃんこれから定義に幾里ある
       そこで花ちゃんの申すには、定義様まで五里と半
       それでは花ちゃん”さようなら”
竹は無くても大竹よ
       急げば早くも
二本松赤坂小阪もひと登り
      青の木茶屋でひと休み、日も西山に傾いた
      八枚たんぼを下に見て 昼もさびしい夜盗沢
       
新道隧道通り抜け、見上げて見えるは高柵よ
       大倉
日向の切払い天狗橋より天狗茶屋
       小田や石子や石名窪、とぜんで通るは山ぎわよ
       海老沼、曲戸に栗生坂、地蔵菩薩を伏し拝み
       年は古いが若林、千本杉とは此処なるか
       夏も涼しいひゃっこ沢、何時もどんどと滝ノ上
       はや高森に登りけり小手をかざして眺むれば
       
矢籠部落に大原よ、うしろは獅子込みおうとどよ
       地蔵平の賽の河原、一の鳥居は高見沢
       定義の里に着きにけり五三のキザハシ登りつめ
       二人で揃うて手を合わせ、これこれ申し如来様
       この縁結んで賜れと二度も三度も伏し拝む
       アリヤラン コレハノセイ ササヤレ サンノセイ


      
        八幡町を後にして                         竹は無くても大竹よ


      
            急げば早くも二本松                         赤坂小阪もひと登り

                  
                                やはり赤坂は、坂が多いようです。
                   

      
            青の木茶屋でひと休み                 「昼も寂しい夜盗沢」夜盗沢の下になります。


                   
                    八枚田んぼを下に見て・・・    棚田が見えます。


      
          新天狗橋                            橋から見た渓谷   ダムの堰堤が見えます。


      
         橋を渡ると以前に紹介した小倉神社にでます。      この辺りを下倉地区といいます。

          
              「新道隧道通り抜け」とありますが、近年隧道はふさがり新しい道が出来ました。
              隧道はふさがれこのような状態です。

               

           大倉日向の切払いですが、こんなバス停がありました。
           実は、切払いのバス停もあるのですが、隧道の道を通りましたので、反対側の道になりますので
           カットです。 ちなみに、切払い橋もあり、「日向下」もあります。
           海老沼などの地名は、隧道側のルートです。日向と反対側の道ですね。   
           前の地図を見るとわかります。


    

                       揚羽蝶・・・・・平家の家紋です。


    
           滝の上                       ここは、前に紹介した、ぢゃうぎ道の石碑があった所です。 
 


   


   
       バス停は「込」ですが、実際は「籠」です。
       これは、この付近の田畑からたくさんの矢の根が見つかり、激しい戦いが行われた跡であるこが伝えられている。
       矢を籠めたところ・・・つまり矢籠ですね。
       また、瀧の上の壇の原という地名が本にあるのですが、48号線沿いの「熊ヶ根」に「壇の原」があります。
       どう考えても、源平合戦の壇の浦を想起します。 それにあやかった地名でしょう。



               

                    大原よ・・・・

         定義道を徒歩で参詣したわけですから当然旅籠が必要になります。
        西方寺の門前には四軒の旅館があり、いずれも早坂と称しやはり、貞能公の従臣達の子孫なのです。
        現在は昼食の休憩や又法事などにも利用されています。

    


          

          
     ちょっと定義の話からそれますが、この定義如来も奥深い山の中にあるのですが、この奥に定義温泉そして
     「十里平」があります。
     行ってみました。道は狭くなり山中に入ると本当に行けるのだろうか?と心配になるのですが、道は続いていました。
     定義温泉は、一般の人は入れないと聞きます。
     以前テレビで見たことがあるのですが、巌に手錠のように身体を繋ぐ鉄の鎖が打ち込んであり、無理やりお風呂に
     入れるという感じでした。それは何故かというとこの温泉は精神病にいいとか頭に効くとか言われています。
     泉質は鉄鉱泉で無色透明効能は、頭痛、慢性子宮病、眼病、神経痛、心臓、胃腸病に特攻があるといわれ、
     温度は39度。その環境から精神療養にいいと云われます。
     しかし今回は雪道でもあり、夏になったら外見だけでも見にいこうと思います。
    十里平
     ここは、開拓の地なのですが、最初は営林省関係の従業員家族が4〜5軒住んでいたそうです。
     昭和23年4月樺太から引き揚げた人々入籍が始まりました。
     当初は二十戸ででしたが、28年にさらに七戸が入植し全部で27軒。
     一戸につき3町歩(3ヘクタ−ル)の割り当てを受け開墾しました。
     昭和39年には水田が27町歩完成しました。
     40年には、入植84名の人口が109名となり、田地が41,8町歩、畑地は21町歩、山林0,2町歩をようする十里平
     になったのです。
     しかし、出稼ぎや転出減反政策で大部分が飼料作りに転向し乳牛飼育がメインとなり人口も減ったようです。


          




                                              




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