古代出雲帝国の秘密 
 
 長文ですが一頁にまとめました

大国主の直系が実在した


この本を知ったのは「記紀解体」近江雅和著の本の中で参考文献の中の一冊だった。
この本「謎の出雲帝国」(昭和55年)の著者、吉田大洋氏も言っているが、私自身も古代史への視野が広がり見方や考え方がが変わりました。
まぁ、私の場合は変わったと言う程知識は無いのですがね。
この本を読んで歴史の裏側をチョットだけ覗けたような気がします。
ブログの中でも何度も書いていますが、やはり勝者によって歴史はねじ曲げられたり、刷り込みされ、自分の解釈で固定観念を持ってしまいがちですね。

この本についてどこまで引用が可能か? いや引用自体駄目なのではと思いますが、概略だけではとても内容を伝えることは不可能と思い、一部著者の文を引用させていただきます。

さて、その富氏ですが、アラハバキの記事で多少触れましたが、女性週刊誌(女性自身)のシリーズ人間の中で「4000年のタイムトンネルに生きる男」元サンケイ新聞編集局次長
富當雄(とみまさお)さん当時67歳 。
この記事を見た、出雲古代史の研究をしている著者吉田大洋氏が富氏と会い質問に答えるという形で始まったのです。
著者はオオクニヌシの直系が実在し、それを伝承していることと、出雲の国ゆずりの話に及んだ時は鼓動が早くなり高まったと言ってます。
それではどのように伝承されて来たのでしょう。
日本の神話「古事記」は稗田阿礼(ひえだのあれ)という語り部が物語ったものを漢字で記録したものです。
和銅5年(712年)に漢字が輸入されてからは、語り部の存在は必要がなくなり消え失せてしまったようです。
しかし、この時代に4千年の歴史を文字にせず記憶の中に封じ込めて生きている人がいたのです。
その内容をカットしながらまとめてみます。
それは、富さんが16歳の時の事でした。
彼は父(大分地方裁判所の判事)の元を離れ、本家の富饒若(にぎわか)さんの養嗣子になり、最初の冬を迎えた12月下旬のひどく寒い夜だったそうです。


養父に風呂場で身を清めるように命じられたそうですが、その理由はいつにない形相の養父に尋ねることが出来なかったといいます。
全身を洗い清め水をかぶり上がると、白い麻で織った衣服が揃えられ、まるで埴輪などがまとっている古代服だったそうです。
養父に従って裸足で玄関へおりると、養母が祈りを込める目で彼を見つめ火打ち石を鋭くならし。
お供の下男がかかげる提灯の灯りをたよりに、出雲大社の東、宇伽山(うがやま)の麓にある出雲井神社まで約15分間、口もきかずに向かった。
ここには、富家の遠(とお)つ神租(かむおや)、久那戸大神(クナトのおおかみ)は、日本列島を産み出した伊弉諾・伊弉冊の大神の長男、つまり出雲王朝の始祖なのです。
社殿の階に葦で編んだ敷物が広げてあり、中央には塩が盛られ養父は左に16歳の彼は右に正座して相対した。
父が口をきった。
「これから語ることはわしが言うのではない。神祖さまがおっしゃるのだ。心して聞け。そしてしっかり覚えよ。いずれお前が子に伝えるまで、たとえ兄弟たりとも他言無用。命をかけてこれを守れ!」
この瞬間、彼は寒さにガチガチと奥歯を鳴らしていたのがピタリと止まり全身が緊張で熱くなり脳髄が研きあげられたかと思うほど澄みきった。

富さんは、4千年前からの口承伝承されてきた祖先の生きざまをこの夜から10年間に渡って連続反復して養父から聞かされたのでした。
それは、神と人とが対話する形式で語られ、質問は許されない。
質問を抱くなどもってのほか、養父の言葉をそのまま一語も洩らさず丸暗記するのです。
彼の脳裏にきざみ込まれた出雲王朝から現代に至るまでの富家の歴史は悲惨この上ない血みどろの物語だったのです。
そして確かにこれは、他人には絶対に語られない内容だった。
なぜならば、出雲族は天孫族(天皇家の祖先)と長い闘争のあげく、帝位を奪い取られて徹底的な滅亡の道へ追いやられたからだ。

その屈辱と怨念の歴史をどうして天孫族の支配が続く世の中で口外できるだろうか。
ただひたすら親から子へ子から孫へと語り伝えいつまでも忘れずにあれと願うほかはない。
しかも、この伝承者に選ばれた者は獣肉を口に出来ないそうだ。
また、自分の跡継ぎ以外は肉親であろうと敵だと思わなければならなかった。
いつの世でも親類縁者がもっとも危険な敵となるからだ。と富さんは言う。

何故、伝承したものを文章化しないのか?
富氏はこう話しています。
「文字はただの記号です、本当の感情を伝えることが出来るのは肉声しかない。 しかも、文章にして残せば、敵方に奪われ迫害され、その記録を焼かれ書きかえられてしまう恐れがある」

これは古事記・日本書紀にも通じることでしょう。
同じ日本の歴史であるべきことがこのもっとも古いとされる文献の中で食い違いを見せています。
つまり、作り話が含まれるというわけです。
古事記を要約した本を見ると神様の誕生は、あまりにも汚いものから出来ていたりします。
それはいずれまた話をしたいと思います。
話を戻します。

神話の「国ゆずり」の場として有名な稲佐浜に立った時、富さんはすざましい表情になったといいいます。
天孫族の大軍団から使者として来た武甕槌命が、この砂浜にホコを突き立て「否(いな)、然(さ)」
(イエス?か、ノー?か)と迫り、この談判で出雲大帝国の主、大国主命は降服を決意したという。
(地名の由来はこの意味なのでしょうか?)

富さんはここへ来ると血が逆流するという。 
「2千年前、ここで私の先祖が・・・・・・
私の先祖は、侵略者の目の前で抗議の自殺をしたんだ! ここでだ! ここで!」
大国主命から出雲国を奪った天孫族は大国主命の血族を完全に根絶する為、どれほど苛酷な迫害を繰り返したことか。
富家の先祖を祀った富神社が簸川郡富村にある。
その紋章は亀甲の中に大根が2本交差した図柄なのだがそもそも富家の紋章は亀甲の中にホコが2本交差したものだったそうです。
ところが平安時代(貞観2年)にホコを大根に変えさせられたそうです。
ホコは王権の象徴だからです。


大社の町の旧家では、富さんのことを「向さん」と呼びます。
実は紋ばかりか姓まで変えられて来たのです。
平安時代から明治維新まで「富」と「向」を11回も家名を変えてきたそうです。
敵が力や情勢によって流れに逆らわず生きてきたのです。
先祖の中には毒殺されたものが数名・・・つい数代前の当主は迫害から身を守る為に狂人の真似をしたといいます。

◎富家の伝承
著者が門外不出とされながら富氏から話を聞けたのは、著者が質問し富氏が答えるという形式なら許されるだろうと富氏が判断したことと、著者の誠意が通じたのでしょう。
そして、著者である吉田大洋氏なら天孫側に立って書かれた誤れる歴史を正してくれると思ったからだそうです。

富氏の正式な名称は。「富上官出雲臣財當雄」(とみのじょうかんいずもじんたからまさお)といいます。

出雲神族は、祖神の魂の具象化である勾玉を”宝石”(たから)と呼び、これを付すことのできる王家を”財筋”と称します。
つまり、上記した名前は出雲神族を統括する出雲臣、財筋の當雄を意味するのですね。
この「財筋」を称する出雲神族はわずかに十二軒だそうです。
いかに迫害が大きかったのかが想像つきます。
それでは、何故富氏が養子縁組をしたのでしょう。
富家の伝承は”財筋”の中で一番優れた青年を選んで本家に迎え入れ、語り継ぐのだそうです。
この4000年の伝承を10年もかかって丸暗記するわけですから賢い青年が選ばれるわけですね。

葬送制度(古墳では無い)
古代出雲帝國の否定論があるらしい、その理由は出雲に古式古墳の出現が4世紀半ばで、それ以前には巨大な国家は存在しないと考えているからです。

しかし、富氏の話でそれが解決しました。
出雲神族の葬送制度を知らない為の誤解のようです。
出雲人は高貴な人が他界すると、藤と竹で編んだ籠に遺体を収め高い山の常緑樹(檜・杉など)に吊るした。
つまり風葬ですね。
三年過ぎるとこれを降ろし洗骨し山に埋める。
そしてその木がご神木となり、山が神(祖霊)の座す磐座(いわくら)ととなったのはこのような背景があったのです。
岩石信仰も山岳信仰、または門松もその起源はここにあるのかと・・・
また、子供や妊産婦は石棺に入れ再生を希(ねが)って宍道湖に沈めた。つまり「水蔡」ですね。
古代出雲帝国に古墳が存在しないのは、今までの歴史家が知らなかっただけのことで、当たり前のことなのです。

また、サンカ(山窩)は出雲神族の諜報機関だったそうで、三角寛著「サンカ社会」でも明治7年頃までサンカ族の最高葬は、風葬であったとしているそうです。
※サンカ(ウィキペディア)

出雲神族は、御魂祭を大切にするが、遺体は醜悪な肉体の殻として忌み嫌い息を引きとりそうになると、親子であっても相対したりはしない。
死体に触ろうものなら相続権すら失うのである。
こうした習俗は現代の富氏にも引き継がれ葬式には絶対出ないといいます。

著者はいう、日本の学者は足をかけないで文献の検討だけで十分だとでも思っているのか?
神社を訪れ祭祀を調べれば古代史を解く何かが得られる。
例えば、出雲熊野神社の亀太夫の神事を見れば、出雲族はオオクニヌシの後裔の国造家のことだ。
などと馬鹿なことを言わないで済む。

これからの記事は、著者が富氏・天ノホヒノ命の後裔の北島氏、天ノヒコボの流れをくむという神床氏・物部氏の直系を名乗る神魂(かもす)神社、宮司の秋上(あきあげ)氏・テナヅチ、アシナヅチの末裔の須佐氏、などから足をかけて集めた伝承をもとに書かれたものです。

スサノオの誕生・八雲の謎

スサノオについてこの本では、侵略者だ!として30ページに渡り説明しています。
渡来人でありオオクニヌシと敵対関係にあったが、記紀の作者が出雲親族と結びつける手段としてスサノオをオオクニヌシの父、又は祖神としたため両者の戦いをヤマタ大蛇退治の形ででしか描けなかった。
というわけでスサノオの説明を省く分けにもいかず、長くなりますが、記載したいと思います。
興味深いところもありますのでご覧ください。

古代出雲帝国に否定的な人でもスサノオノ命の存在は認めざるを得ないでしょう。
それは、「延喜式神明帳」(本には延喜神明式とあるのですが、この事かと?)
また、祗園社(八坂神社)・氷川神社の主祭神がスサノオであり、国内に広がりを見せているからでしょう。
スサノオの誕生を記紀ではこんな感じに書いてあります。
イザナミいる黄泉の国から逃げてきたイザナギは、九州の日向の橋という小さな瀬戸のほとりの阿波岐原で禊ぎ祓いをする。
この時、両眼からアマテラス大神とツクヨミノ命が、鼻からはスサノオノ命が生まれた。
所謂、三貴子の誕生である。
スサノオは「海原を治めよ」と命じられたがこれに従わず、連日のように激しく泣き青山を泣き枯らし河海を泣き乾すというありさまだった。
このため悪神が満ち満ち様々な災いが起こった。イザナギがその理由をただすと「イザナミのいる母の国、根之堅州国へ行きたい」と答えたのでイザナギは大いに怒って、「お前はこの国に住んではならぬ」と云って追い出した。

~(割愛)~

アマテラスのところに行きますが、結果、高天原を追放されます。

「草薙剣とオオクニヌシ」
老人夫婦と娘に会います、
夫婦はオオヤミツミ神の子アシナヅチとテナヅチで娘はクシナダ姫と名乗り「自分達には8人の娘がいたが高志(新潟)のヤマタノ大蛇に毎年一人ずつ食べられ今年は最後の娘の番です」という。
スサノオは身分を明かして娘を所望し、代わりに大蛇を退治しようと申し出た。
夫婦は喜んで同意した。
スサノオは娘を櫛に変えて自分の髪にさし老夫婦に酒を造らせ八つの樽に満たして大蛇を待った。
やがて大蛇がやってきて八つの頭で酒を飲み始めた。
物陰に隠れていたスサノオは剣で大蛇をずたずたに切った。
肥の川はその血で溢れ、真っ赤になって流れた。
尾を切ったときの剣の刃が欠けたので裂いてみると霊剣が出た。そこでスサノオは姉のアマテラスに献上した。
これが草薙の剣で皇位の御璽(みしるし)三種の神器の一つとされ、熱田神宮に祀られています。

八雲立つ
スサノオはクシナダ姫を妻とし出雲の須賀の地へ行き、「わしはここに来て心がすがすがしくなった」と言い宮殿を建てて住んだ。 (まるでオヤジギャグ)
その時、雲が立ち昇ったので、歌を詠んだ。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」

スサノオとクシナダ姫の間に生まれた子の六世の孫がオオクニヌシノ命であるとする。
(日本書紀では嫡子としている)

さて、この八雲立つ・・・・・どんな意味なのでしょう。
古事記ではこのように書いています。

夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁幑爾 夜幣賀岐都久留 曽能夜幣賀岐袁

日本書記ではこのようになっています。

夜句茂多菟 伊都毛夜覇餓岐 菟磨語味爾 夜覇餓枳菟倶慮 贈廼夜覇餓岐廻

後生の学者は、この歌を結婚の為に新築する家の新室寿(ことほ)ぎの歌であるとし下記のように解釈した。

【漢文調訳】
八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作るその八重垣を

【現代語訳】
盛んに雲が立つ 出雲の八重垣よ 妻を篭らせに八重垣を作る その八重垣よ

どうでしょうか、記紀に書かれた「夜久毛」や「夜句茂」が何故「八雲」になるのか?
この本の著者は疑問に思います。
確かに素人でも不思議に思います。

また、「日本書記」には「スサノオが須賀の地に立つと『雲が立ちのぼり』オオクニヌシの妻スセリ姫は云々」と記している。
「夜久毛」は八雲なら、その通に何故書かないのか?
また、「都麻」や「菟磨」についても「妻」と表記していない。
また、八つの雲をめでたい雲だとするが、雲が八重にでもなれば、瑞雲どころか凶雲のはずである。
※瑞雲=めでたいしるしの雲

サンカ族のこの歌に関する解釈はまるで違う

三角寛氏は富士山人穴ほか、十八ヶ所で「八雲立つ」の歌に関するサンカの伝承を集めてこう述べている。

サンカは不良分子を「クモ」と呼ぶ。つまり、愚連隊やデモ隊などの暴行者のことを彼らは「ヤグモノガキ」と呼ぶ。
その実、彼らの祖先も、穴居して反逆を繰り返していた。
天津罪、国津罪の代表者である、スサノオノ命一族によって平定されて、帰順した。
そのことを「ヤクモ断ち」といっているのです。
ヤマタ大蛇も群居していた土グモ、クマソもすべて複数の「ヤクモ」である。
このヤクモ征伐を学者たちは、ヤクモ「瑞雲」が立つことにしているが、彼らは云っている。
サンカは、婦女に暴行を加えることを「ツマゴメ」と言う。
また、「女(め)込めた」とか「女込んだ」などともいう。
この「ツマゴメ」も昔から彼らの得意とするとろであった。
それから、「ツレミ」(連身)の掟(やえがき)が出来て一夫多妻を禁じた。
それが、一夫一婦(つれみ)の制度(やえがき)である。

サンカは「八重垣の歌」を次のように解釈している。

ヤクモタチ(ツ)=ヤクモ(暴漢)断つ

イヅモヤヘガキ =平和を芽吹く法律

ツマゴメ(ミ) =婦女手込めに

ヤヘガキツクル =掟を制定し

コ(ソ)のヤヘガキヲ =この掟をこの守る憲法を



これが「一夫一婦」の掟(やえがき)である。
それで出雲族を誇示するサンカは自分達のことを「ヤクモ断滅(たち)」だと自称して誇っている。
彼らの「ヤクモ断ち」を「出雲憲法の喜の歌」としているのだ。


スサ族とスサノオ

スサ族

スサノオの別名を牛頭天皇(インド祇園精舎の守護神<除疫の神>)という。
「牛冠をかぶった貴人」の意味です。
「日本書紀」崇神天皇の条に「任那(みまな)がソナカシチを遣わして朝貢した。
※4~6世紀頃、朝鮮半島南部にあった伽耶諸国の日本での呼称。

 日本書紀では、4世紀後半に大和朝廷の支配下に入り、日本府と言う軍政府を置いたとされる。
 ※朝貢=外国人が来朝して貢物を奉ること。

垂仁天皇の条には「御間城(みまき:垂仁)天皇の世に額に角がある人が船に乗って越国(福井県)
の笥飯:けひ(気比)浦にやってきた。
そこで、この地を角館(つぬが:敦賀)と言う。
その人に何処の国の者か?と尋ねたら、こう答えた。
オオカラ国(任那加羅)の王子で、名をツヌガアラシト、別名をウシキアラシチカンキという。
とある。
ソナカシチは朝鮮語。 ソ=牛 ナカ=出て来る シチは尊称で「牛のように角の出ている貴人」
ツヌガアラシト=角がある人
ウシキアリ=額に角があること
「韓国史」の中で韓国の学者は、弁韓及び辰韓人たちが、かぶった冠の前面に角状のものがついているのを見てこう呼んだ。と述べている。
牛頭=朝鮮の地名で、ソシモリ(江原道春川村の牛頭州)という。
「日本書紀」にもスサノオがソシモリへ行ったことが記され、朝鮮の牛頭山には天主堂があった。
この神を祭神とする京都の八坂神社の社伝には、「斉明天皇の二年(656)新羅の牛頭山における、スサノオノ命の神霊を迎え祀る」と見える。
そして勧請したのは、遣唐使の吉備真備だとも朝鮮人だとも伝えている。
石見で「韓」または、「辛」と名のつく地名のところには、必ずスサノオ神話が伝承されている。
その子、イソタケルを祀る神社にも「韓」の字が冠せられている。
スサノオはアマテラスの弟として権威づけられたため、出雲人の大祖神のようにされてしまったが、出雲国風土記でもスサノオは須佐地方の一首長に過ぎない。
オオクニヌシとも血縁は無い。
「記紀の作者がスサノオに与えた演出はただ一つ! 出雲国造りのオオナムチのしゅうとになることだけであった」

まだ、記事の途中ですが、この記事は「謎の出雲帝国*吉田大洋著」から編集しています。
自分は、この本を読んで出雲神族の富氏との会話の中で、古代出雲の王朝が渡来族(天孫族)に侵略されて行く場面を読み出雲の本来の姿を表現したくて書き始めました。
しかし、長くなっており、詰めて書きたいのですが、詰めるとその理由がわからなくなったり証明が出来なくなったりします。
しかし、長文は本意ではありませんので、できるだけ短くしたいと思います。
ここで、渡来族とか天孫族とか書いていますが、日本人の成り立ちを考えれば、当然渡来人の集まりでもあります。
その流れは、多くありますが、次の機会に書きたいと思います。
また、神社を訪れれば天孫族も出雲もその神話や歴史上の人物が神として祀られています。
私自身は、批判も否定もしません。
古来からある神社・仏閣には、心から手を合わせるつもりです。

こんな私みたいな者が居るから、富氏は口外しなかったのでしょうね。

出雲井神社

富家の伝承には「大和や紀伊は出雲の分国」とある。
出雲王朝は北九州から新潟にいたる地域を領有していたのである。
オオクニヌシは古代出雲において重要な存在ではなかった。
出雲大社が杵築(きつき)へ移ったのは、霊亀二年(716)のことで、それまでは熊野にありクナトノ大神を祀っていた。
クナトノ大神は、岐神(ふなと)、来名戸之祖神(くなとさえのかみ)、衡立船戸神(つきたてふなとかみ)、八衢神(やちまた)、久那斗神などと書く。
天孫族も、この神は畏敬しており、常磐国などの東国は、この神が開拓したもので、香取神宮の主祭神(普都大神)ともなっている。
富家の伝承に「女の神」はあるが、アマテラスは無い。

天皇家でも古くは祀ってはいなかった。

「延喜神名式」によると、タカミムスビ・カミムスビ・タマツムスビ・イクムスビ・タルムスビ・オホミヤノメ・ミケツカミ・コトシロヌシである。
天皇家の氏神、守護神は所謂ムスビ系の神のようだ。
アマテラスに当てはまる神社は、いくつかあるがいずれも男性神で、女神のアマテラスは存在しなかった。

「大和国城下郡:鏡作坐天照御魂神社」・「城上郡:他田坐天照御魂神社」
「山城国葛野郡木島坐天照御魂神社」・「久世郡:水主神社十座の中に水主坐天照御魂神社」
「摂津国嶋下郡:新屋坐天照御魂神社」・「丹波国天田郡:天照玉神社」・「播磨国:揖保坐天照神社」
「対馬国下県郡:阿麻氏留(あまてる)神社」

これらは男性神で伊勢の女神アマテラスとは関係ない。
対馬のアマテル神社(祭神:アメノヒタマノ命)を除き、ほとんどが尾張氏およびその同族とされる丹波氏の祖神を祀っている。
祭神は、アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノ命です。
ニギハヤヒは出雲神族のナガスネ彦の妹トミヤ姫を妻とし、物部氏の祖ウマシマジをもうけたことになっているが、富家の伝承には登場しない。
ニギハヤヒは尾張氏の祖神で、物部氏とは無関係なのだ。
物部神社の主祭神もニギハヤヒではなく、ウマシマジである。
つまり、ここではアマテラスなどという女神は存在しないとしている。

四千年前の戦いが今も続く
出雲の旧家で国ゆずりを単なる伝説とか、作り上げられたものと考える家は一軒もない。
出雲神族の富家はアメノホヒノ命の後裔の国造家(北島、千家)、神魂神社宮司の秋上家とは婚姻関係を結び、形の上では、同族になっている。
しかし、秋上氏の口から千家氏に対する怨念の言葉が洩れるなど、いまだに対抗意識をもっている。
一般の人にはわからない血の争いが今でもあるのでしょうね。

この本の著者がクナト大神をを祀る出雲井神社に行こうと大社の社務所で道を尋ねたそうです。
ところが、なかなか教えてくれなく、うさん臭そうにこちらの顔を眺めながら「なぜ、そんなところに行くんですか? 小さな社がポツンと立っているだけで、なんにもありませんよ。」と言われたそうだ。
道順を聞きだすのに五、六分も押し問答をしたそうだ。 (今は、この本を読んでるでしょうからそれは無いかも知れませんね。)
社家では出雲井神社(土地ではサイの神さんと呼ぶ)と聞いただけで神経をピリピリさせるという。
社家にとって出雲井神社を訪れる者は危険人物なのであろう。と云ってる。

言い換えれば、クナトノ大神が出雲神族の大祖神であった証明なのかも知れない。

※アメノホヒノ命=天孫族の先発隊

「出雲国風土記」にヤマタノ大蛇や国ゆずりの話がないことに関しても、富氏は明解を与えてくれた。
「敗れた記録を残した者はいない、それらは怨念の歴史として口から口へと語り継がれるものだ。
風土記はアメノホヒの後裔の出雲臣広嶋がまとめたのだが、われわれの祖先が敗残の記は載せさせないように圧力をかけたのだ。
日本の歴史学は風土記に神宝事件も記されていないのにこれを問題にする人はいない。


アメノホヒ命(スパイ)とコトシロヌシの死

天孫族はアメノホヒ一族を先発隊として送るがホヒはオオクニヌシへへつらい、三年経っても帰らなかった。
続いてアメノワカヒコを派遣したがオオクニヌシの娘、シテタル姫を娶(めと)り葦原の中つ国を自分のものにしようと八年も何時いた。
タカギノ神は怒りワカヒコを殺してしまう。
これは、国ゆづりの前の段階ですがワカヒコは殺されたのにホヒは殺されなかった。
それどころかホヒは出雲の祭祀権を握り子孫は国造に取り立てられる。
上古は人々の戦いでは無く、その氏族が奉じる神と神の戦いであった。
祭祀権を握るということは政権を握ることを意味します。

ホヒは何故、国造家の祖となり得たのか?
出雲では「クニノミヤツコ」では無く「コクソウ」と呼ぶようです。
出雲の国造が新任した時、一年の潔斎を経た後、朝廷に出て出雲の神からの祝いの言葉を述べる。
潔斎=神事、法会などの前に酒や肉食などをつつしみ沐浴をするなどして心身を清めること。

「出雲の国造の神賀詞(かむよごと)」では、ホヒは葦原の水穂の国を偵察した後、帰国して報告し、その子アメノヒナドリノ命にフツヌシノ命を添えて天降りし、荒ふる神どもを平らげ、オオクニヌシの媚びしずめた。とつじつまを合わせている。
これは、表向きの話で、ホヒの本来の姿はまるで違う。
国造家の「出雲文書」では、「ホヒは隠中であった。」(隠中<いんちゅう>=スパイ)
ホヒは出雲神族と婚姻関係を結んで、オオクニヌシに国ゆずりをするよう画策する一方、後続部隊の手引きをしたのである。
出雲の祭祀権を握り、子孫が国造におどり出た理由はここにあった。

神魂神社の秋神氏によると
天孫族の本拠地は九州にあり、ホヒ一族は九州から対馬海流にのり海路にて出雲入りした。
そして稲佐浜での攻防戦が始まる。
出雲神族には戦いの歴史がなかった。  後退につぐ後退を強いられた。
オオクニヌシは至急、水軍の将であるコトシロヌシを呼び寄せ協議する。
「これ以上出雲人から犠牲者を出したくない。 敵の要求をのみ国ゆずりをしようと思うがどうだろか」

「私個人としては反対です。でもお父さんがそう仰るのなら従いましょう」
コトシロヌシは天孫族にのろいの言葉を残し海へ飛び込んで自殺した。

その時の模様を再現するのが美保神社の青柴垣の神事である。
コトシロヌシの死の前夜祭は四月六日(夜)に松明がたかれ神殿では、鈴をもった未通女(おとめ)が巫女舞を舞う。
翌七日の朝、コトシロヌシの代わりに二の頭屋神主が四艘を二艘ずつくり合わせ、二組の神事の船に乗り移る。
船には板を渡した上に四角の天幕の中でコトシロヌシの死の儀式が行われるのである。

富氏は唇を震わせながら言ったそうです。

「青柴垣の神事は天孫族への恨みを決して忘れないぞという、出雲人の無念さを表すものなのだ。」
屈辱の神事でもある。観光客に見せるようなものではない」

美保神社は、富家のものだった。 今の神主の横山氏はうちの代官で朝鮮との貿易であがる税の取立てをやっていた。 現在、祭神はコトシロヌシとミホツ姫ということになっているが、本来の祭神はミホススミノ命である。呪いを残して死んだコトシロヌシは天孫族に非常に恐れられていた。
そうした者を祀らせてくれるわけがないだろう。八重垣神社にしてもオオクニヌシの娘が祭神で、スサノオとは関係がなかった。

出雲を占領したホヒ一族はさらに大和へ侵攻、ここの出雲神族をも降ろした戦いは出雲より激しかったと伝えている。
「日本書紀」天孫降臨 第二の書 オオクニヌシの国ゆずりの神話が暗示している。

出雲第二王朝と藤原氏は帰化人

オオクニヌシはオオナムチ・ウツクシタマ・アシハラシコオ・ヤチホコ・オオモノヌシ・など多くの名前を持っていた。
つまり、オオクニヌシは代名詞で十七代に渡り何人もいた。
上記の名前も実名ではない。
クナトノ大神も、五十代と伝えています。
ちなみに、オオクニヌシが「大黒様」、コトシロヌシが「えびす様」になったのは平安末期のことで、出雲は平田市鰐淵寺(がくえんじ)が一時、大社を領有し本地垂迹(すいじゃく)説から、七福神の一人として仕立てあげたのです。

諏訪に出雲第二王朝を築く

タテミナカタは服従を好まず、越へ後退。 
母方(高志のヌナカタ姫)の勢力をバックに信州へ入り、第二王朝を築いた。
ミナカタは科野(しなの)に乗り込み、テナガ、アシナガ族や守矢(洩矢)の神などを征服する勝利者として描かれている「日本第一大軍神」とされたのはこうした理由からでしょう。

出雲国風土記に名前が出ていないためミナカタを出雲系ではないとする人がいるが、この神の正式名はタテミナカタノトミノ命である。
神社名はミナカタトミ神社。
蛇神として崇められ御神(おみ)渡り神事では氷が裂けるのを「竜が走る」という。
御神体は鎌で、これは神魂神社や出雲大社の御神体の釜に出雲の鉄器を象徴するミナカタを祀る上の社は、拝殿と幣殿だけで本殿を持たない。
彼方の神聖林が本殿に相当する。
この形は、オオモノヌシを祀る、大和の大神神社と同じであり。
出雲系以外のなにものでもない。

記紀によると、ミナカタはタケミカヅチに追われて、諏訪湖に至り、そこで降伏したことになっている。
しかし、富家の伝承にミカヅチは、登場していない。
それは鹿島神は当時存在していなかったからである。
この神を奉じたのは、太安麻呂を出した多氏一族である。

一般に鹿島神はミカヅチではなく、タテカシマだろうといわれている。
鹿島神宮の社殿内陣の構造は出雲大社とそっくりでクナトノ大神も摂社に祀られている。

隣の香取神宮も(フツヌシが祭神)では、出雲の「亀甲」を神紋としている。

記紀においての操作を謀った藤原不比等の話は、私も何度か目にしている。
やはり、この本の中にも記されている。

ミカヅチを記紀において活躍させたのは多氏系の人々と藤原不比等である。
ミカヅチには神武天皇の投影が感じられる。

富氏の伝承には、藤原氏は帰化人だとある。
彼等には氏素姓を高める為にどうしても天つ神の系譜が欲しかったようだ。

最初は天ノコヤネノ命を祖神だとし、次にタケミカヅチを担ぎだしたのだという。

中臣氏(藤原氏)の祖神は天ノコヤネとされる。
ところが奈良の春日大社では、第一殿にミカヅチ、第二殿にフツヌシ、第三殿にコヤネ、第四殿にヒメ神を祀っている。 コヤネのランクは低い。

神魂神社の秋上氏は言う。

「天ノホヒの祖神は天ノコヤネである」

執筆時:今上天皇は、124代(現在は125代)、秋上氏は120代、大社社家の千家氏は83代だ。
千家氏は40代ほど少なく、勘定が合わない。
このズレはホヒの上にツハヤムスビノ神・・・・天ノコヤネ系を加えれば埋まるのです。

社家では、祖神のコヤネを藤原氏に奪われたがその権力に抵抗できず。黙認したのかも知れない?
藤原氏はコヤネを祖神としたが、さして重要な役割を演じた神ではなかったので不安を感じ、さらにミカヅチ手を伸ばしたのだ。

鹿島神宮の宮司、東(とうの)実氏は「いつの頃か東国へやってきた中臣氏が鹿島神の神系と婚姻関係を結びやがて鹿島神宮の宮司となりこの神を崇めるようになったのだろう」

鹿島神と藤原氏は本来関係がない。
ミカヅチは作り出された神であり記紀に載せられたことにより、鹿島神宮も後生タケミカヅチを祭神にしたに過ぎない。

著者は以下の理由から藤原氏を中国系と考えている。

● 中臣氏は大陸系の亀トを職とした。
● 小説家の八切止夫氏は、藤=原で、古くは藤原ではなく「藤」と称した。
  事実藤原不比等の娘、光明皇后は「藤三娘」と署名している。
● 藤原氏の専用紋の「牡丹」は中国の国花である。
● 香川県大川郡にある志度寺の縁起と縁起絵図(海女の珠とり伝説)によると不比等の妹の一人は、唐の  国の高宗皇帝の妃だという。
● 不比等は壬申の乱時に、漢王の後裔という田辺史(ふひと)に預けられていた。
  名前の史(ふひと)はフヒトからもらったものだ。
  幼名をカラコといい曽我氏についていた。
● 藤原氏と秦の始皇帝の後裔の秦氏は数多くの婚姻関係を結んでいる。
● 藤原氏は中国文化思想の流人につとめ、五節句をはじめとするもろもろの年中行事をも取り入れ、
  それを従来の行事に当てはめていった。

三輪山・富氏の伝承・・・まとめ

司馬遼太郎氏は、「歴史の中の日本」の中で「生きている出雲王朝」と題して出雲民族について触れているようです。

天孫族と出雲王朝との間に協定が結ばれました。それは国譲りの後のことです。
その協定とは出雲王朝は永久に天孫族の政治に関わらないということでした。

哀れにも出雲王族は、身柄を大和に移され、三輪山の側に住んだそうです。
それが三輪氏の祖であるとされています。

また、奈良県は元々出雲王朝の植民地的な存在だったのだろうと想像されます。
神武天皇が侵入するまでは、出雲人が耕作を楽しむ平和な土地であったに相違ないと・・・・

奈良県人は県内にある神武天皇の橿原神宮よりも三輪山の大神神社を尊崇して毎日ツイタチ参りという物があり、彼らは「オオミヤはんは、ジンムさんより先や」という、かつての先住民族の信仰の記憶を現在の奈良県人も心の底であたため続けているのかも知れません。

三輪山は、山全体を神体としていますので、神道において最古の形式を遺しているといえますね。
つまり、自然崇拝が祈りの初めと私の史観でもあります。

このような形を甘南備山(かんなびやま)というそうです。
出雲にも甘南備山が多く、「出雲国造神賀詞」にはカンナビの話がやたらと出ているそうです。

出雲民族の信仰の特徴といえるでしょう。

神武は出雲神族と婚姻関係を結び、大和に分散させられた出雲人に三輪山の祭祀許したのです。

この三輪山の祭祀は、付近から発掘された縄文遺跡の陶片から、2000年以上も遡ることが立証されています。

伝 承

※この世界が一夜にして氷の山になった。大祖先のクナトの大神は、その難を避けるため、一族を引き連れて移動を始めた。
東の彼方から氷の山を越え、海沿いを歩いた。
そうして何代もかかってようやくたどりついたのが出雲の地であった。
(今から四000年も前のことである)

※クナトノ大神は、いろいろな知識を持ち、前からこの地に住んでいた人々に、鉄の採り方や布の織り方、農耕の方法などを教えた。
糸は、麻・綿、はたの木から作り、これをクリやシイの実で染めた。
出雲人に戦いの歴史はなかった。人々は生活を良くしてあげることで、自然についてきた。
クナトノ大神は、王に推された。

神在月
※習俗と祭祀<神在月につながる慣わし>
首長は「カミ」と呼ばれた。
毎年十月に各国(各地)のカミが出雲に集まって、その年の収穫物の分配について話し合った。
多い国は少ない国に分け与えた。
この時、我々は祖国を偲んで竜蛇(セグロウミヘビ)を祀るのが習わしであった。
【これが現在の神在月につながる。各国のカミがいなくなるので出雲以外では神無月と言うのである】
我々は、祖国を高天原と呼ぶがこれは遠い海の彼方だと伝えている。

※神武の侵攻
ホヒ族とは、次第にうまくいくようになったが、今度は神武が九州から攻めて来た。
勢力を回復していた我々は穴門(長門)で迎え撃った。
神武は、防府、河内、熊野などで6人死んだが七人目の神武は強かった。
我々は「カラの子」と呼んでいた。
朝鮮からのヤタガラスが神武の味方にについた。
彼らは和解すると見せかけては、次々と出雲人を殺していった。
まことに陰険であり、残酷であった。
王のトミノナガスネ彦は傷つき、大和を神武にゆずって出雲は退いた。
王は出雲で亡くなった。
神武は橿原(かしはら)で即位し大和の王となった。
出雲人は、大和。出雲、北陸、関東、東北などに分散された。
神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた。
我々の反乱を防ぐためでもあった。
縄文時代も終りのことである。

上記の話を神話と比較すると非常に近いそして確かに皇后は出雲から嫁いでいる。

初代神武天皇(神話時代の天皇)
伝説上の天皇とも言われていますが、実在説も少数ながら存在する。

神話によると、神武は天孫族の裔(すえ)である彦波瀲武鸕か草葺不合命(ひこなぎさたけうかやふきあえずのみこと)と、竜宮竜族の娘である玉依姫(たまよりひめ)との間に生まれた。
当初は九州の日向国(ひむかのくに)を治めていたが、葦原中国(あしはらのなかつくに)の統治を目指して東上し、難速国(なにわのくに)からの上陸を試みた。
しかし土豪ナガスネヒコの抵抗により断念し、紀伊半島を迂回して新宮から上陸。
熊野経由で大和をめざし、天照大神から降された神剣や高木神から遣わされた八咫烏の助けを得て大和に盤踞(ばんきょ)する荒ぶる神たちを平らげ、畝火の白檮原宮(しらかしはらのみや)
(畝傍山の東南の橿原の宮)で即位した。

皇后の父は、「日本書紀」では事代主命、「古事記」では大物主神。
なぜ、一つしかない歴史の話が違うのか腹立たしいのでありますが、いずれも出雲の神でありともに大和盆地に祀られている。

2代綏靖天皇の皇后も事代主神の娘(五十鈴依媛命)いすずよりひめのみこと

3代安寧天皇は記紀には具体的なエピソードは何もない。皇后はやはり事代主神の孫の鴨王(かものおおきみ)の娘(淳名底仲媛命)ぬなそこなかつひめのみことを后としている。

4代懿徳天皇はなんと兄弟の息石耳命(おそきみみのみこと)の娘(天豊津媛命)を后に迎えている。



富氏によると、出雲神族は神代文字を用いていました。
神代文字は「あらはばき」の記事の中で写真をUPしています。
サンスクリットでも、象形文字でもなく、パピルス状のものに、縦書にされていた。
永く富家で保管していたが、大正15年に帝室博物館が借り出し、いまだ返済しないといいます。
解読され発表されればまだ我慢できるが、行方不明らしい。
公開できない理由があるのか? 元教授の家にでも眠っているのか?


クナトの大神

「日本書紀」では「岐神」、「古事記」では「衝立船渡神」
出雲井神社には「久那斗大神」として祀られている。

「我々の大先祖は「クナト(岐神」)の大首長だがもう一つの女首長に「アラハバキ(荒吐神)」があり、体制側によってこれがこれが抹殺されようとした時、クナト「地蔵」「アラハバキ」「弁才天」へと変身した。

アイヌ語で「クナト」は男根、「アラハバキ」は女陰の意味で本来、一対のものだと言われる。
これは、倶知安のアイヌの酋長菊池俊一夫妻の話。

クナトノ大神は、幸の神、寒の神、道祖神、道陸神(どうろくじん)とも呼ばれている。

久那斗神社で検索すると一件だけ岩手県北上市和賀町の山に存在する。
近い内に行きたいと思っています。
やはり、道に関係するようです。


「アラハバキ」についてホームページにまとめていますが、私の史観ではどうも出雲神とアラハバキが非常に一致する部分があるように感じる。
上記に記載した通り、一対のものである。とするのも要因の一つですが、時代的にも律令国家が出来る以前の話であることや、アラハバキは鉄の神様と言われることもある。
出雲大社の御神体は釜であり、鉄に関わる。

または出雲神族が氷の山を越え現在の地に根付くまで、塩釜で塩作りを教えていること、多賀城の荒脛巾神社は鹽竈神社(塩釜神社)の末社とされています。
しかし、鹽竃神社より荒脛巾神社の方が古いと思いますので、後にそうなったのでしょう。

アラハバキは旅をして回る神という性格があります。
もっとも直接的には、出雲国島根郡爾佐神社境外社「荒神社」はマロトさんと呼ばれていた、という証言があります。

マロトとは門客人のことで、門客神とは、「客人神(まろうどがみ)」のことで、「客人神」は地主神がその土地を奪われて、後からやって来た日本神話に登場する神々と立場を逆転させられて、客神となったと考えられているようです。


「あらはばき」の記事ではアイヌ語に照らし合わせたら、arpa-pake がある、これは、行く(発つ・出発する)・首領(頭)などの意味になるらしい。と書いていますが、上記の女陰との関係はまだ不明です。
言葉を区切った場合と続けた場合ではまた違うと思いますが発音などを聞いてみたいものです。



      出雲の国譲りの真相、出雲から追われた人々・アラハバキとは 一話

      出雲の国譲りの真相、出雲から追われた人々・アラハバキとは 二話

「アラハバキ」の記事はここをクリックしてください

アラハバキの記事では、伊勢神宮の元々の神はあらはばきではないのかと言う話を検証しています。

長くなりましたが、ここでひと区切りです。

アラハバキについては今後も追及してまいります。

                          
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