支倉常長とサンファンバウティスタ号
支倉常長(支倉六右衛門常長) サン・ファン・バウティスタ号に乗せた夢とは・・・・・ 常長の三つの墓とは ![]() 伊達政宗がローマ教皇へ送った親書の内容とは・・・・仙台領内でキリスト教の布教を許可するのと引き替えに、 メキシコとの通称を希望するものでした。 政宗はキリスト教信仰擁護のもとに、貿易により大きな利益を得、 将来の南蛮国政略の為の国情偵察を図りながら徳川幕府に忠誠を装い、 実はイスパニアとの同盟、ローマ教皇の指示のもとで、日本皇帝への道を 切り開く外交を考えていたとの説もあります。 そこには政宗の『大きな野望』があったのです。 政宗は日本史の中で幕末になってからの外交手法を200年以上も前に 行おうとしていたのです。 その全権をたくしたのが、支倉常長だったのです。 生まれは、山形市県長井市邑立石。父親は山口飛騨守常成/ 山口常成(五郎右衛門)の次男伯父支倉時正1200石の養子となる しかし実子が生まれた為半分の600石を譲り受け分家となる。 柴田郡支倉邑(現在:川崎町)に住む。 情報探索や情報の収集処理に有能な武士であったと言う。 朝鮮出兵の時に渡航を経験し鉄砲組頭として抜群の従卒力に政宗は 高い評価をした。 常長は藩主伊達政宗の命により遠くスペイン・ローマへ通商交渉のために慶長十八年(1613)秋、牡鹿郡月ノ浦を出港。 七年の歳月をついやして元和六年(1620)秋帰朝したが、時すでに鎖国と 切支丹弾圧(キリシタンだんあつ)が全国に強行されていた。 仙台藩は元和八年常長死亡の報告を幕府に提出したが、長途の困難な 使命を果たした功臣常長を人目に触れないこの山林の中に隠し静かな 余生を送らせた。 帰朝後三十年承応三年二月常長は八十四歳の天寿を全うした。 遠藤周作先生は、著書「侍」の中で・・・ 1613年10月28日、支倉六右衛門常長が月の浦港から日本を後にした その日から、彼は外国での経験を記録した日記をつけはじめる。 彼の死後しばらくは、この日記は東北地方の彼の領地内に保管されていた が、この旅にかかわるほとんどすべての資料と同様、これもまた藩当局の 手によって紛失せしめられたか、あるいは抹殺されてしまった。 このことは我々にとって大きな損失といえる。 支倉のこの日記こそ、あの旅をめぐる数多くの謎に光を投げかけうる唯一 の信頼できる資料であったのかもしれないからだ。 伊達政宗Copyrigt (c) 2009,ひーさんの散歩道 all rights reserved |