伊達騒動:(寛文事件)と伽羅先代萩 



伊達騒動

伊達騒動とはどんなものだったのでしょう・・・ 

一般的に耳にする、歌舞伎や浄瑠璃で有名な、伽羅先代萩と実際の事件について検証して見たいと思います。

しかし、この御家騒動を知ってる人は、県民の何%いるでしょうか?

よほど歴史好きじゃないと知らないのかも知れません。

ご存知のように「NHK大河ドラマ樅の木は残った」で事件のことを知った人もいることでしょう。
しかしながら、作家の見解や見方を変えると史実から掛け離れていく場合もあり、あくまでも芝居や小説として見ることが大事なのかもしれません。

徳川時代の有名な三代御家騒動と言えば、黒田騒動(1633年黒田家、福岡藩50万石)・加賀騒動(1748年前田家、加賀藩120万石)とこの伊達騒動(1660年伊達家、仙台藩62万石)でしょう。
大藩での出来事は注目を浴びてしまうのは、当然のことでしょう。

特別注目されたのには、大老酒井雅楽頭(うたのかみ)屋敷での刃傷事件が大きく係わって来ます。
それは後程紹介したいと思います。

御家とは、江戸時代の大名家を指します。
御家騒動は、当時の人々にとっては、スキャンダル的要素があり平凡な暮らしをしている人達には刺激的で気になる事件だったのだと思います。

普段は大名の御家の内幕など、伺い知ることも出来ない庶民にとっては、週刊誌のスクープ的な興味で見ていたのではないかと想像できます。

御家騒動は藩にとっても名誉なことでは無いので、その関係資料は処分されることも多く、例え残っていても他見不許可の措置がとられるのが普通のようです。

事件の判決次第で、騒動の一切の責任を負わされ処分の他に、悪役に仕立て上げられるのが通例でしょう。
これが芝居になると脚色され、複雑かつ面白く筋書きが変わっていくのです。
架空の人物も加えられ、あたかも実在の人物であるかのように印象づけられていくのです。

伊達騒動をテーマにした歌舞伎はいろいろありますが、やはり代表的なものは、伽羅先代萩と実録仙台萩のようです。
伽羅とは、香木であり、出陣する武士は兜の中に香を焚き込めたといいます。
つまり伽羅=忠義の武士となり 先代=仙台 萩=宮城(現在宮城の県花はミヤギノハギ)となるわけですね。

最初に劇化されたのは、廷享3年(1746)11月 江戸森田座で公演した「大鳥毛五十四郡」のようで、事件が始まった万治3年(1660)から86年目でした。

次いで安永7年(1778)7月 江戸中村座で「伊達競阿国劇場」(だてきそうおくにかぶき又は、だてくらべおくにかぶき)を上演し、これが土台にになり、浄瑠璃・操人形の伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)が出来あがり、天明5年(1785)正月結城座で初演された。

その他にも伊達騒動を取り扱った劇はこんなにありました。

    隅田川柳伊達絹(天明2年3月市村座)
    伊達染仕形講釈(天明2年8月中村座)
    姿伊達契情容儀(寛政元年9月市村座)
    大三浦伊達夜引(寛政11年2月中村座)
    姿花江戸伊達染(文化9年3月市村座)
    慙紅葉汗顔見世(文化13年7月河原崎座)
    帰曲輪花伊達染(文政6年3月中村座)
    万歳御国歌舞伎(文政10年3月市村座)
    当館扇伊達写絵(弘化3年3月中村座)
     明治から大正に掛けて河竹阿弥作の
    実録仙台萩(明治9年6月東京新富座)
     松居松葉の列女政岡(大正8年2月歌舞伎座)
    碧瑠璃園の伊達安芸尽忠録(大正9年10月市村座)
     (資料:斉藤荘次郎氏著「先代萩実録」付録二先代萩の話による)

現在の伽羅先代萩になるまでに、かなりの改作が行われているようです。

十幕あった話も、徐々に減り、名場面を中心に四幕物となり、舞台背景も奥州藤原を舞台にしたり、足利将軍の殿中となったり登場人物の名もかなり変化があるようです。
当時は実名を使用することが許されなかったからですね。


それでは、一般的に知られている、伊達騒動について紹介したいと思います。

その後に、背景や歌舞伎としての伊達騒動、そして史実を検証して行きたいと思います。

                      伊達騒動とは・・・・(俗説)

仙台藩主伊達政宗公(六十二万石)を二代目忠宗公が受け継ぎます。
しかし、三代目綱宗公が19歳で後を継ぎその2年後に事件は起こります。

時は寛文元年(1660)秋・・・  
藩主三代目綱宗公が幕命により、万治三年、江戸小石川のお堀工事の命を受けます。
工事は何事も無く日々進んでおりました。
ところが、悪臣達により遊郭吉原への執拗ような誘いに負け、吉原に案内されたのです。
初めは遊びのつもりでおりました綱宗公も、二度三度と足を運ぶようになり、当時 江戸吉原の名妓といわれた
高尾太夫を見初めてしまうのです。

それからというもの綱宗公は、藩の政治を見ることもなく吉原へ毎日通い詰めるのです。
それを良い事に、悪臣達は幕府に実状を知らせたのです。
そこで政治を顧みなかったとの理由から幕府の怒りに触れて21歳の時に隠居を命ぜられてしまったのです。
国の政治をつかさどる権力を失った綱宗公は、江戸品川の別邸に退かれたのです。

その時四代目綱村様(幼名・亀千代)はわずか二歳でした。
二歳の若君に何ができましょう。 当然、後見役が必要でした。

この後見役に当たったのが政宗の末子にあたる伊達兵部宗勝と二代目忠宗の三男、当時の一関城主、田村右京亮です。
この二人は家老の原田甲斐と結託し伊達62万石を乗っ取ろうと目論んでいたのです。
乗っ取りを成就するには二歳とはいえ城主の亀千代が邪魔になります。
そしてその最後の手段として幼い亀千代を毒殺して伊達兵部の子、東市正(いちのかみ)を城主にしようと図ったのです。

このような危険な状態から若君を守る努力は並み大抵ではなく、
母である三沢初子様(芝居では乳母正岡となっております)を初め涌谷城主、伊達安芸ら忠臣達は大変なものでした。

奥から出されるお膳やお菓子には毒が入っているかも知れないからです。
それ故、亀千代君の召し上がる物は、すべて母である三沢初子様が調理なさったそうです。
ご飯は茶釜で炊き、おかずと言えば塩と味噌という粗食を取られていたのです。
このような食べ物にもかかわらず亀千代の身辺も気付かわれ、月日は流れ約13年が経ちました。

寛文11年3月27日(酒井雅楽頭屋敷の取調)

時の大老、酒井雅楽頭忠清の屋敷においての裁きによって、御家は無事安泰となったものです。

悪の中心人物と云われた原田甲斐は酒井邸においてその悪政が暴かれた悔しさに伊達安芸に手向かって参りましたが、

その場において打ち首にされたのでございます。

(安芸57歳 原田甲斐53歳)

原田一族は、今の柴田町船岡に城を持っていましたが、この事件後一族は処刑にされております。

これは後程詳しく。

伽羅先代萩

登場人物

鶴 千 代=伊達亀千代(後の四代藩主綱村)

仁木弾正=原田甲斐

渡辺外記左衛門=伊達安芸

山名宗全=酒井忠清

細川勝元=板倉重矩

架空の人物=乳母政岡その子千松、荒獅子男之助、弾正の妹八汐

しかし、この対立する両者の中で、四代藩主鶴千代を守り、実の子千松を主君への忠義との教えで亡くし、
悲劇的な人物の政岡はこの劇の中では主人公と言っても過言ではないでしょう。
主君への忠義と親子の愛情の板ばさみで、涙を押えて忠義を貫徹する政岡の存在がこの劇の名場面であり、
長く続いた原因ではと思います。

この劇の中で「腹はすいてもひもじぅない」と言う、千松のセリフは、江戸中期の流行語になったようです。
現代なら流行語大賞を取ったことでしょう。

それでは、伽羅先代萩の第二幕(竹の間)のシーンから・・・・

幼君の鶴千代が乳母政岡の子千松を相手に遊んでいる。

そこへ仁木弾正の名代、妹の八汐と田村右京亮の妻沖の井が、近頃殿中で起こる怪事件について、
政岡を糾明(きゅうめい)するためあらわれ、八汐は鶴千代に食膳をすすめたり、女医小槇の針術をほどこしたりしようとするが、政岡はこれを拒否する。

鶴千代の殺害と政岡を計略に陥れようとして失敗した八汐は、無念そうに沖の井とともに退場する。
  
第三幕は足利家奥御殿の場 (前にも述べたように、舞台は変えてあります)

悪人がはびこり、忠臣はしりぞけられた殿中で、政岡がただ一人鶴千代のを守護している。

毒殺の心配があるため、政岡が自ら飯を炊いて、子供の千松に毒味をさせて進める。

一粒の米にも事欠くこの頃では、飯炊(ままた)きの支度も容易ではない。

「腹がすいてもひもじぅない」の千松の名文句はここで登場してきます。

飯炊きの場面が終わると、管領山名持豊の奥方栄御前が沖の井と八汐を従え、見舞いに来る。

美しい菓子折を鶴千代にすすめると、千松はかけ寄って、その一つを食べ、残りを足蹴りする。

毒が廻って苦しむ千松を八汐が懐剣で咽喉を刺し、母(政岡)の前で殺害する。

無礼者千松の成敗は当然と、政岡は悲しみを押えて涙一つ落とさないのです。

栄御前は政岡が平然としているのは、千松と鶴千代を取替えておいたためと合点し、政岡も悪人の一味と認め、
連判状を渡して帰る。

二人が帰った後で政岡は、吾子の死骸にとりすがり、「コレ千松、ようでかしゃった!でかしゃった!よなぁ~」と泣く。

政岡のモノローグ・・・

「思い廻らせば此の程から諷ふた唄に千松が、七ツ八ツから金山へ、一年たてども未だ見えぬ唄の中なる千松は、待つ甲斐あって父母に、顔をば見する事もあらう。

同じ名の付く千松の、そなたは百年待ったとて、千年万年待ったとて、何の便りがあらうぞいな~、三千世界に子を持った、親の心は皆一つ、子の可愛さに毒なもの食うなといふて叱るのに、毒と見たなら試しみて、死んでくれいといふような、胴欲非道な母親が、又と一人あるものかいな~」

ここで、俳優も観客も涙を流し、先代萩最高の見せ場なのです。

政岡が悲観の涙にくれているとき、陰で聞いていた八汐が、政岡に斬りかかる。

政岡は懐剣で八汐の脇腹を刺し、千松の仇を討つ。

その時一匹の鼠があらわれ、紅隈(べにぐま)に反りを打った太刀、鉄扇を構え、足下に大鼠をふんで、荒獅子男之助が出現する。

男之助は悪人の讒言(ざんげん)で、君側からしりぞけられていたが、御殿の床下に潜んで鶴千代君を守護していたのである。
男之助が鉄扇で鼠を打つと、掛烟硝(かいえんしょう)の中から鼠色の着付けをした蒼白な仁木弾正が、巻物を口に咬えてせり上って来る。
ここで男之助と弾正の対決となり、又一つの大きな見せ場が現れる。

対決は引き分けに終わり、弾正は巻物を懐にして去る。

大詰の問注所対決では山名宗全の不公平な裁断と渡辺外記左衛門の苦心、細川勝元の出場と仁木弾正の服罪を描き、刃傷の場では愁眉を開いている外記左衛門に、前非を悔いて連判状を渡すと見せかけた弾正が、突然短刀で外記左衛門を刺す。

渡辺民部、山中鹿之助、笹野才蔵がかけつけて弾正をおさえ、深手を負った外記左衛門が弾正を倒す。
細川勝元が現れて外記左衛門の忠義を賞し、足利の御家は鶴千代が相続すること、本領は安堵されたことを告げ、外記左衛門は御家の安泰を知って瞑目する。


これが、芝居での大筋の流れです。 

               当時の寛文事件を題材にした歌舞伎の浮世絵があります。 これは「伽羅先代萩」の御殿の場

           

            床下の場

           


                     
 
      容色仙代萩
            

政岡と振姫の墓所の記事はこちらです


 亀千代と生母三沢初子

伊達二十代の家督となった亀千代は、当年とって二歳であった。 前年、綱宗の養母振姫が死んだ翌月の三月に、江戸の浜屋式で生まれた。
初子の先祖は出雲三沢の住人で、のちに長門(山口県)に移り、祖母の代に近江に移った。父三沢権佐(ごんのすけ)清長は、大垣城主氏家志摩守広定の養子となったが、関ケ原の役ののち流浪し、慶安四年に江戸で死んだ。
十三歳で父母に死別した初子は、叔母紀伊に養われることになり、振姫の侍娘だった叔母を介して振姫に仕えた。
初子の容姿と聡明さをみた忠宗は、綱宗の側室にしようとしたが、紀伊は初子が名家の子孫であることを理由にこれを断り、正室ならば謹んでお受けすると答えた。 忠宗は承知し、明暦元年正月、綱宗と初子を結婚させたという。
しかし、忠宗がこれを正規の結婚として幕府に届け出なかったのは、やはり初子の素性が歴としたものでなかったこと、さらに綱宗が公式には未成年だったことによるものと思われる。そのような状態のまま家督を相続し、さらに隠居となった綱宗は、ついに正室を持たないままで終わったが、初子は事実上の正室として扱われたのである。

亀千代相続の万治三年(1660)に二十歳だった初子は、貞享三年(1686)四十八歳で死去し、振姫の菩提寺である仙台考勝寺に葬られた。
弟の三沢信濃宗直は、万治二年伊達家に召しかかえられ、のちに一門に列している。
歌舞伎『先代萩』の政岡、あるいは浅岡は、この三沢初子を脚色しtものだとの説があり、仙台孝勝寺の初子の墓は、俗に「政岡の墓」と呼ばれている。




それでは、事実はどうなのでしょう???

発端は綱宗逼塞
万治三年(1660)七月十八日の七つ(午後四時)すぎ、江戸小石川の普請場から芝の浜屋敷(現新橋駅構内)に帰った仙台藩主伊達陸奥守綱宗は、上使太田摂津守資次及び立花飛騨守忠茂・伊達兵部少輔宗勝から、逼塞の幕命をつたえられた。
陸奥守はかねて病身であり、そのうえ不行跡で、家臣らの諫をも聞きいれないよし紛れが無いので、逼塞を命じる 。跡式(跡目)のことは、おって申し付けるであろう。ただし、小石川堀普請のことはすでに着手して進行中のことでもあるから、家臣を出して従来通り続けるように。

綱宗に対する幕命の伝達に先立って、この日、立花飛騨守・伊達兵部少輔宗勝および伊達家臣大条兵庫宗頼・片倉小十郎景長。茂庭周防定元(初め延元)・原田甲斐宗輔が、老中酒井雅楽頭忠清の邸に召集され、老中阿部豊後守忠秋・稲葉美濃守正則の列座のもとで、綱宗に対する上意を申しわたされた。 上意を受け賜わった飛騨守と兵部少輔は上使一名の派遣を願い、その結果太田摂津守が上使にたち、飛騨守と兵部がこれに同道することになったのである。

逼塞というのは、竹柵をかまえる閉門」とは違って単に門を閉ざして昼間の出入りを禁止する刑である。武士の閏刑のうちでは最も軽い。

記録
幕府の記録『徳川実紀』は、綱宗の逼塞にについて、伊達家臣からの綱宗隠居の願いと、これに対する上意の伝達と執行の過程、さらに上意のの主旨を、先に紹介した程度に記している。
これに反して伊達家の正史『治家記録』には、次のようにあるだけである。
「万治三年七月十八日辛未、公(綱宗)故アリテ御逼塞。太田摂津守資次殿、柳川侍従忠茂朝臣、伊達兵部大輔殿宗勝、御出、仰渡サル。


「綱宗の乱行」
綱宗の進退ののことは、じつは伊達家臣たちから出願されたものであった。
万治三年七月九日付で、伊達弾正以下十四名の重臣たちが立花飛騨守及び伊達兵部あてに、綱宗の隠居を願う連署状を提出している。
   その際の綱宗隠居の理由は、もっぱら「病気」となっていた。
ところが、幕府からの逼塞の上意の理由は、「病気」よりも、むしろ「酒色にふけり、家士等の諫めをも聞入ざる」ことだけをあげている。『徳川実紀』などでは、「病気」のことは上意からまったく脱落している。

 これがその時の連署

 

 

 伊達弾正宗敏  伊達式部宗倫(むねとも)  田村右京宗良  伊達安芸宗重  伊達和泉宗直  伊達安房宗実
 石川大和宗広  奥山大学常辰  遠藤文七郎俊信  富塚内蔵丞重信  原田甲斐宗輔  茂庭周防定元
 片倉小十郎景長  大条兵庫宗頼

伊達弾正から石川大和までは、伊達家中の最高の家各の一門。
奥山・茂庭・片倉・大条の四人は、仙台藩最高の要職、奉行(家老)。
遠藤・冨塚・原田は宿老である。宿老は代々奉行となる家柄で現職であるなしににかかわらず、公式の文書には奉行と共に連署するならわしであった。

 一旦、話を逸らすが、文学博士の大槻文彦は『伊達騒動実録』という二巻による大著を吉川弘文館から刊行している。
この書物は、「伊達騒動」についての「あらぬ事」を排除し、事実を究明しようとする歴史研究の立場にたち「伊達騒動」に関する最初の本格的研究となった。
『実録』は「伊達騒動」の真相を次のように要約している。 「世には、寛文仙台の悪政に付きては、ひとえに兵部少輔宗勝・原田甲斐を称すれど、其の実、奸魁は、渡辺金兵衛・今村善太夫にて、兵部、もとより驕横なれど、・・・・・。
第一の悪心として渡辺金兵衛・今村善太夫をあげる。
これについては後ほど記載します。

亀千代 家督相続
万治三年(1660)八月二十五日の朝、伊達兵部・立花飛騨守・太田摂津守および大条兵庫・片倉小十郎・茂庭周防・原田甲斐は老中酒井雅楽頭の邸に召集され、将軍補佐保科肥後守正之・老中阿部豊後守・稲葉美濃守、大目付兼松下総守の列座のもとに、雅楽頭から次のような申しわたしをうけた。
・・・・・・ このたび、一門・家老の輩の言上の趣を上聞に達し、陸奥守(綱宗)に隠居をおおせつけ、跡式のことは実子亀千代に下される。伊達兵部少輔の本知一万石に二万石をたし、田村右京を大名にとりたてて三万石とし、ともに亀千代の領分のうちからその知行を下される。両人で亀千代を後見せよ。

江戸では、綱宗逼塞下命の翌十九日の朝、綱宗の近臣、坂本八郎左衛門・渡辺九郎左衛門・畑与五右衛門・宮本又市の四人が斬殺された。
綱宗に不行跡をすすめたかどによる成敗である。
このことについて、『茂庭家記録』によると、「君(周防定元)、御計ヲ以テ、仰ラルト」 と述べている。
江戸詰奉行茂庭周防が、自分の計らいで成敗したというのである。 確かに上意のあった翌朝の処断が、国もととの連絡を待たずになされたことは明白である。が、それは江戸にいた兵部・右京・奉行大条兵庫・普請総奉行片倉小十郎・評定役原田甲斐らの諒承のもとにおこなわれたとみてよかろう。成敗のことは、その日のうちに幕府に届け出られた。

この処刑は、大槻文彦が述べたように、幕府に対する伊達家としての謝罪の行為であったとみられる。
 
 『茂庭家記録』には次のような記録が見られる。
・・・・・綱宗の逼塞に先立つころ、茂庭周防は幕府御側衆の久世大和守弘之(のち老中)のもとにひそかに呼ばれ家督の候補についてたずねられた。周防が亀千代を願う旨を答えると、広之は、そのように願い申し上げよ。
ただしこの内談の言葉は片倉小十郎には内密にせよ。と指示した。
これによって周防は、目付け役の里見十左衛門を仙台に派遣し、伊達安芸・伊達弾正江戸登を要請した。
伝えによると、広之が小十郎には内密にといったのは、酒井雅楽頭が伊達六十万石を三十万石を兵部、十五万石を立花台八(飛騨の守の子息)、残りを田村右京に分け、うち三万石を小十郎に分けて大名にとりたてる、という密計を立てていたためであるという。

これらを事実とすれば、綱宗隠居後の処置について、兵部・台八・右京らに三分する密計があり、また亀千代相続のことも一門重臣らの入札によってはじめて確定したことになる。

ところが、この年六月二十六日の伊達弾正あての書状には、次のように気されている。
------綱宗不行跡による伊達家の危急について、、立花飛騨守の邸に寄りあい、大条兵庫・片倉小十郎・茂庭周防を招集して内談したところ、綱宗を隠居させ、亀千代に相続を仰せつけられるように、と重臣が連判のうえ出願すべきだ、という意見が一致した。
このことは、すでに春(一~三月)のうちにもあなたからお話があったことでもあり、賛成していただけると思う。
綱宗の兄弟などを家督にたてることは、幕府としては許さぬ方針だから、ただいまは亀千代をたてるほかに、伊達家の身代を守るすべは考えられない。
奥山大学から連判のことが参るだろうから、どうか加判を願いたい。 この旨、右京・式部へもお伝えいただきたい。-------
末尾に「必々、火中々々」とかかれたこの密書は、しかし焼却されずに後世に伝わることになったわけであるが、その内容によれば、兵部および弾正らの間に、綱宗隠居・亀千代相続のことがすでにこの年の初め以来話題にのぼっていたこと、しかも亀千代以外のものを家督に立てるという意向が彼らにはなかったこと、したがって入札のこともありえなかったことが判明する。
そして兵部は、この書状の箇条で、「若し、このたび、無同(同意しない)の者は、伊達之御家へ逆心に候間、あい除くべきよう、飛騨殿と申し合わせ候」
とのべている。
 
 『実録』に収めるこの書状は、『実録』刊行の明治後期には、玉造郡岩出山町の上遠野秀宜氏の所蔵となっているが、弾正あてのこの文書は当然岩出山伊達家から上遠野氏の手に移ったものであり、推測される伝承経路から、偽文書とは考えられない。
また、このように、兵部に対する評価を有利にするような文書が、後世に偽造されるはずはない。大槻文彦もまた、この文書を疑ってはいない。

問題はむしろ、『奥山大学覚書』と『茂庭家記録』にある。 大学の覚書は、すでに「騒動」が落着したのちの貞享二年(1685)に書かれたもので、奥山大学が自分に都合のよいように作為したものとみてよい。   事実、この覚書の部分には、綱村隠居願いに大学が加判しなかったと書いてあるが、それにもかかわらず、七月九日の連署状に大学が加判したことは、すでに確認した通りである。 上記写真には奥山大学の名前がはっきりと見える。

詳しく書いていると長くなりますので割愛させていただきます。
奥山大学やり放題・・・
万治三年大学が江戸に上り、綱宗の不行跡は確かに本人の不覚悟にもよるが周防が悪事をすすめたためでもある。
このような悪人とともに公用をつとめることはできない、と幼君亀千代ののもとで両後見人に訴えた。
周防の退任をせまった大学の弾劾によって周防は家老を罷免された。
仙台藩の初期には奉行は六人で、仙台詰二人、江戸詰二人、在郷休息二人という形で交換するのがたてまえであった。
茂庭周防失脚後、奉行は、奥山大学常辰・古内主膳重安・大条兵庫宗頼・柴田外記朝意・富塚内蔵丞重信の五人。
この年十二月に古内主膳が病死した。
翌寛文二年には大条兵庫宗頼が隠居し、かわってその子監物宗快が奉行となり、柴田外記と内蔵丞はまだ二年目で大学の威勢は決定てきになる。
前年の三月大学は三千石から六千石への加増を許されている。
大学のとった行動を見ると・・・・・・・・・・忠宗の世に死んだ今村三太夫の跡式について忠宗の命令をのちに書き換えて違った処置をした。    藩主の御霊屋の御用にさえたてぬ宮城郡愛子山の松を五百本も伐って自分の建築のあてた。
禁則をやぶって、饗応に贅沢をつくし、毎度乱酒乱舞した。 家老衆は賄賂を受けとらなかったが大学は何でも受け取るようになっていた。 仙台城中の鷹屋を自分の屋敷にたて、御鷹師衆を自分の屋敷に詰めさせ藩主御名代同様のふるまいをした。
他にも色々あるが割愛、悪代官ならぬ悪奉行である。

その後、一門および家臣らの訴えがだされ、国目付から老中に報告され、大学を罷免した。大学は「悪人」の名で呼ばれることになった。

原田甲斐

寛文三年(1663)原田甲斐宗輔と伊東新左エ門重義が奉行に就任した。
甲斐は宿老、在所は柴田郡船岡で知行高は寛文十年の侍帳では、4183石となっている。
甲斐宗輔の母は香ノ前  香ノ前については 伊達政宗の資質と歴史の因果 に記載しています。
甲斐は三十歳で評定役に任じられ、万治二年・寛文元年のそれぞれ鹽竈神社の普請総奉行に、万治二年には忠宗廟所感仙殿の普請総奉行にあてられている。
甲斐は『千代萩』の仁木弾正のような悪人でないことは勿論でであり、また山本周五郎が『樅ノ木』に記したような理想的な人物でもなかったことはまずうたがいなかろう。



















現在編集中です。 この事件の原因について追記いたします。


綱宗逼塞と母振姫 
 そこには複雑な理由が絡んでいたようです。

万冶1年7月12日、二代忠宗が60歳で浙去。
9月3日に綱宗に相続が命ぜられ、三代藩主に就任。ところがその2年後万冶3年7月18日に幕府から逼塞を命ぜられ、品川屋敷に移り、正徳元年(1711)6月4日、71歳で没するまで藩の品川屋敷で隠居生活を送ったのです。

何故綱宗は二年で隠居になってしまったのでしょう。

これは伊達騒動を語る上で重要なポイントです。

それは、綱宗の身持不行跡説です。

まず綱宗には酒狂の癖があったと伝えられてます。

それには、こんな資料が残ってます。

二代忠宗に殉死した重臣、古内主膳重広は、遺言していた。

「今ニ至りテ、此末、心ニカカル事二ツアリ、当君御壮年ニ在シテ大ニ酒ヲ好ミタマフ、是一ツ、次に兵部殿(伊達兵部宗勝)
才智ニハ御家中ニ及ブ者ナシ、是ノミ心ガカリ」と残し伝えている。


その他の史料でも綱宗に酒狂の悪癖があったことは、明らかなようだ。

しかし、問題はこの悪癖だけに限らず、二代忠宗が亡くなった後に、綱宗を擁護しようとする勢力が藩内に居なかったことでしょう。

元々血筋にも藩内で孤立していた綱宗だったのです。
唯一、忠宗の死後頼りになるのは、母振姫の存在だけでした。
伊達家にとって振姫は徳川幕府と伊達氏とを結ぶ象徴的な存在であり、振り姫の威光は即徳川幕府の威光であり絶対だったのです。

そもそも綱宗の就任は振姫の御声がかりによって就任したものなのです。
ところが、後ろ盾になっていた振姫も翌年万冶2年2月5日江戸において53歳で浙去してしまいます。
(現在仙台の日蓮宗孝勝寺に葬られています)

振姫については、省略させていただきますが、簡単に言いますと、池田輝政の女振姫を二代将軍秀忠の養女として忠宗に嫁がせたのです。
つまり家康の孫という立場であります。

実は、家康が忠宗に嫁がせたかったのは、自分がもっとも寵愛した太田氏おかじの方所生の女子市姫をと決め手いたのですが、殤したため振姫に変更したわけです。

話は戻ります。 
当時、綱宗は振姫の計らいで振姫の待女、三沢初子を側室に入れ、江戸浜屋敷で綱宗の第一子綱村を生みました。
時は万冶2年3月8日です。
確か、綱宗は正室を設けなかったので、実質三沢初子が正室見たいなものです。

綱宗は江戸へ参勤、小石川堀普請の大工事に従事することになります。
人足六千人を動員する程の藩を上げての大事業でありました。
しかし、綱宗の行跡について藩内に不審な声があり、特に振姫死後に重臣の間から堀工事開始以後は普請場出場を口実に盛り場に遊興することもしばしばという実情でした。

万冶3年6月、水戸中納言頼房、立花飛騨守忠茂らの親族方よりも意見を加え、老中酒井忠清よりも意見を加えたが綱宗の行跡は改まらず、7月9日に綱宗引退の願書が一門家老の連署で立花飛騨守・伊達兵部大輔宛に提出され、領内重臣総意の形で、7月18日、上使太田摂津守が来邸し綱宗に閉門逼塞が伝達された。

自業自得ではあるが、綱宗をこのような行動に走らせた原因は藩内における孤立無授の彼の立場も理解してあげなければならなかったのではないのだろうか。

しかし、忠宗亡き後、独立大名の地位を狙っていた伊達兵部宗勝があり、藩内は動乱が起きうる状態であったことは紛れも無い。



簡単に事件のまとめ・・・  

伊達兵部宗勝は大国に生まれながら嗣となれない立場を恨み、二代藩主忠宗が没すると謀議を企てる。
まず、奉行の原田甲斐と結託し三代綱宗を押さえ込み、幼君四代綱村を嗣に立てる。
伊達兵部宗勝は三万石の直参大名に取り立てられ、綱村を後見し国政を壟断した。
それだけではなく、長男宗興の嫁に大老酒井家の養女を迎えてからは謀議をあらわにして、伊達家を分割して自らが相続しようとした。
そのため訴えがあり、寛文十一年三月、酒井大老屋敷で関係者への尋問が行われた。
その席で宗勝派の原田甲斐が原告の伊達安芸らを斬るという前代未聞の大事件が起きる。
のちに張本人宗勝の罪状が暴露され、土佐に流される。 その時宗勝は51歳であった。 土佐山内家の保護を受けた宗勝だが快々(おうおう)として楽しまず。
延宝七年、気鬱症(ノイローゼ)から熱病を発症し、58歳で没した。

しかし、このまとめも絶対ではない、複雑な経緯がある。
大老酒井雅楽頭屋敷の刀傷事件 
 寛文11年(1671)3月27日
伊達安芸宗重及び三家老に老中方から、板倉内膳正重矩(いたくらないぜんのしょう)屋敷に三集するよう召出があった。いよいよ最後の断の下る。
この日の朝早く、原田甲斐は、板倉家を訪ね、直々申し上げたいことがあると願い出たが、重矩は後刻、老中列席の場で聴取すべしと答え、面会しなかった。
甲斐としても、必死の場面であることが推測される(治家記録)

昼九ツ時、酒井雅楽頭から老中方が雅楽頭の屋敷に寄り合っているので、こちらに
罷出(まかりで)るように使者があり、一同が大老酒井忠清の大手前屋敷に向かった。
その大書院には、大老酒井忠清、老中稲葉正則、久世広之、土屋数直、板倉重矩、仙台の申次町奉行島田守政、
作事奉行大井政直、大目付大岡佐渡守忠勝、目付宮崎助右衛門憑仲(よりなか)など、関係者が全員参集していた。

取調べは、伊達安芸、外記、甲斐、志摩の順に一人づつ呼び出され、さらに安芸、外記、志摩と二回目の尋問があった。
そうして、甲斐が退出し志摩が入れ代わって奥に入っていった後に、甲斐の刀傷事件が発生したのです。

その時、外記と甲斐は表座敷におり、安芸は障子をへだてて縁側に出ていた。
聞番の蜂屋六左衛門は一間を隔てて下の使者の間に控えていたという。
甲斐は奥から出てきた申次に対し、まだ申し上げたいことが残っているので、もう一度陳述させてほしいと懇情したが、
申次は「今日のお尋ねはこれで終了したので、又のことにせよ」と云い残し、奥に入った。

甲斐は「何となく立候て、安芸様前を通候ふりにて」(花井氏雑記)
抜き打ちに差していたニ尺ばかりの大脇差で、「おのれめ故と詞をかけ」(桃遠境論集、下)、安芸の頸元を斬り付けた。
安芸もとっさに三原正家の脇差を抜き、「がきめ!(仙台弁で子供を言う)と叫び、甲斐の股(もも)のあたりを切り払ったが、
急所を打たれたため、即座に落命した(花井氏雑記)。
甲斐はそのまま奥の方に進んで行ったが、外記は一大事と後から追いかけ、背後から甲斐の肩を斬った。
甲斐は元来覚悟して、さね帷子(かたびら)を着籠ていたので深手とならず、取って返して外記の額を斬った。
使者の間にいた蜂屋六左衛門は、太刀打ちの音を聞いてかけ付け、甲斐を後ろから斬りつけ、組み付いて脇腹を刺した。
甲斐はそこで力が尽きた。
この物音に酒井家の家臣達がかけ付け、甲斐を斬ったばかりでなく、混乱して外記や六左衛門をも斬りつけた。
六左衛門は粗忽するなと叫んだが、石田弥右衛門に斬られ、弥右衛門も手傷を負った。
外記も酒井家の家臣に斬られ重傷となったのだ。

甲斐の刀傷事件は、当時の大事件であるので、自分の主人の手柄話にしようと思うのが人の人情というもの、話は又聞きされてゆくうちに一太刀がニ太刀になり大袈裟になっていったようである。
この所伝を総合的に見ると、前記のような話になる。

資料によると、伊達安芸宗重の斬られるところは、涌谷の花井家雑記が詳しく、柴田外記の行動は外記の最後をみとった医師福井玄享の書状が状況を伝え、蜂屋六右衛門の動きについては、治家記録所引の蜂屋氏記が信用するに足りるようである。



 


遊女高尾太夫
 
綱宗の遊興の相手として、俗に三浦屋の高尾の名が上げられている。
高尾が綱宗を思って「君はいま駒かたあたりほととぎす」と一句を物したとか、後に綱宗の意にさからった高尾は、
釣るし斬りにされたとか・・・二人の関係については、いろいろ俗説が伝えられている。

高尾という遊女は、新吉原、京橋一丁目の妓楼三浦四郎左衛門の抱え遊女で、三浦屋が元吉原にいた頃から寛保年中
まで、百年にわたって高尾という遊女が存在します。
それは、何代にもわたって襲名されて名前なのです。
しかし万治年間の高尾は、同2年12月5日に没していたのです。
したがって綱宗が高尾に通ったという説は誤りとしなければなりません。

また諸家深秘録には、綱宗が湯女の勝山に通ったと伝え、執心してこれを買い取ったと述べている。
一説には、勝山と同じ頃の山本屋の遊女薫という者を相手に遊興したのではと推測されている。 
 参考文献:伊達治家記録の著者/平 重道先生の仙台藩の歴史 伊達騒動から
       紫桃正隆 著   「政宗をめぐる十人の女」 

 伊達家には、寛文事件に関する関係資料の書状が「伊達の黒箱」と云われる箱に収められている。

           

           
                 伊達の黒箱/寛文事件(伊達騒動)の資料
                      
                     伊達の黒箱についてはこちらをクリックして下さい。
                                          



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