荒脛巾神社 多賀城
                                                 

  

      

  鎮座:多賀城市市川奏社(旧、宮城郡市川邑)
  旧、阿良波々岐明神社

  [封内風土記」には一ノ宮・鹽竃神社末社と記していることは、鹽竃神社の祭神がアラハバキに関係があったことを
   示していると思われる。
   「先代旧事本紀大成経」はナガスネヒコが大和で敗れ陸奥に退いたとき、民に塩を焼いて施し、軍船を司った。
    よって陸奥の鎮としたのが今の鹽竃の神社である。」と述べている。


   菅江真澄が「すみかの山」で血鹿の浦を訪れたとき故郷のアラハバキと同じだと言ったのはこのことを指している。
   また多賀城跡の南側に「南宮」があり製鉄とのかかわりを示している。
   南宮社と中山神社は製鉄・冶金の神である金山彦を祀っている。(中山神社は未確認)


  
   「あらはばき」の石碑から南に細い坂道を下ると、左側の民家の庭先にその神社は鎮座しています。 

                 

      

      
                                      境内にはお地蔵様があり 石碑には、聖徳太子と書いてあります
 
   社殿には、トタン板で屋根が掛けれていました。
   雪の上に足跡が残っていましたので、今でも訪れる人がいるようですが、かなり傷んでいます。
      
   市史には、市川伊保石にある荒脛巾神社には、腰から下の病に霊験があるという信仰があり、脛巾・脚絆・草鞋
   ・足袋・足の木型・杖・男根・女陰など祈願者の患部にかかわる物の供物や絵馬がおびただしく社前に奉賽されている。
   安産や子授けも願われ、願う者は供えられている小さな枕を借り受け、礼詣りに二個にして供える。
   さらに仙台方面の水商売の者の参詣も多く、商売繁昌を願って供えられている男根を借り受け、礼詣りに二本にして供える
   信仰もある。  
   男根が男根が供えられることから道祖神の額も奉納されている。
   市川村の「書出」によれば、社領が二貫文あって明和五年(1768)に御当代様が寄進したものとある。
   祭日は三月と十月の二十一日で、かつては露店も出て信者を多く集めていた。
   境内には
※養蚕神社と地蔵堂があり、地蔵堂は「子育て地蔵」と呼ばれ、繋がれた雑器が多く供えられており、耳垂れの
   平穏を願う者が、その歳の数を供えるものである。
   この地蔵には子供の夜泣きや子授けも願われる。
   当社にはかつて福島県伊達郡の者という菊地きえ女があって祈祷のことをし、境内にある井戸が霊泉とされ、神経病の
   者などをこの水を沸かした風呂に入れて祈祷をしていた。

   当社は鹽竈神社の末社の一つにされており、鹽竈の神が塩を煮とき、脛巾を着けて薪をとったのでこの神号があると
   伝えている。
   しかしこの伝承は、鹽竈神社の末社に組み込まれることによって語り出されたものと推測される。

   
   「脛巾を着けて」、と漢字から神号や社名の意義を伝えているが、関係が無いと私は思います。
   それは、昔(漢字が使われる前)から存在する神社と考えられます。
   当然このような社殿が設けられる前の話です。
   ですから、漢字は後から当てられたもので、地域により漢字は異なる。
      

   ※養蚕神社
    古くは立石(壺の碑)のある岡に鎮座していた。コガイサンと呼ばれている。
    かつてこの地では養蚕が盛んであったが、現在この神を養蚕の神とする信仰はない。
    喘息の平癒に霊験があるとされ、願う者は痰の根を切るといって、供えられている鋏(はさみ)を一挺(いっちょう)借り受け
    礼詣りに二挺にして納める。
    社には供えられた多くの鋏がある。
     
      2010年5月に新たに撮影しました。多賀城/荒脛巾神社

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