あらはばき アラハバキ 荒脛巾 とは・・・・ 大元の神とは・・・ あらはばきの原点を探る
 
 

 

  「あらはばき」とは  荒脛巾神社やアラハバキの原点とは

宮城県多賀城市にある荒脛巾神社を見たのが興味を持った原点になります。   この記事をブログに書いたのは、
2008年になりますが、その後岩出山の荒脛巾神社を訪れ、アラハバキを調べるには、もっと古代を学ばねばと思った.
その時に、「記紀解体:アラハバキ神と古代史の現像」近江雅和著(彩流社)に出会いました。
    

律令国家となり、大和朝廷がこの地(東北)を平定(侵略)してくる以前の話です。
「まつろわぬ民」であった、蝦夷(えみし、えびす、えぞ)が大和朝廷により追いやられながらも守り続けたと伝承されています。
※「まつろわぬ民」=大和朝廷のいいなりにならない民

アラハバキを祀る神社は東北地方に多く見られますが、全国的にも見られます。
しかし「アラハバキ」としてでは無く、門客神(もんきゃくじん)として祀られている場合が多いようです。
門客神とは、「客人神(まろうどがみ)」のことで、「客人神」は地主神がその土地を奪われて、後からやって来た
日本神話に登場する神々と立場が逆転し、客神となったと考えられています。
つまり、ご主人様が隅に追いやられ、乗っ取られてしまったわけです。

アラハバキは旅をして回る神という性格があります。
もっとも直接的には、出雲国島根郡爾佐神社境外社「荒神社」はマロトさんと呼ばれていた!
という証言があるようです。
マロトとは、まろうど=客人のことです。
     
   
アイヌを語ると、関連して蝦夷が出てきますが、アイヌ=蝦夷では無いと考えるべきです。
アイヌ語については、岩手県に多く見られますが、日本全国にあると言えます。ここでは割愛します。
また最近では「アイノ」と発音した方が近いとも言われています。
アイヌについては「北方世界に生きた人々」 「アイヌ語地名解/岩手とアイヌと平泉文化」 「あなたの先祖は何系」 
などの記事も書いております。
大和民族(通常)の場合は、縄文から弥生に移りかわりますが、アイヌ民族の文化は縄文文化から引き続いた続縄文文化擦文時代から形成されてきたものです。
現日本人の一つであることは間違いないでしょう。
蝦夷とは何か???


蝦夷と呼んだのは、政権側が勝手に名付けたものですね。 逆にアイヌは和人(大和民族)をシャモ・シサムと呼んでいました。
中国は日本人を倭人と呼びますが、これは日本人が当時自分のことを「我(ワ)」と呼んでいたからです。
平安時代を背景にしたドラマのセリフでも自分のことを「わ」と話しています。 今度意識して観て下さい。
自分のことを「ワ」相手のことを「ナ」と言う言葉は津軽弁ですね。 面白いものです。
魏志倭人伝ですが、このようなタイトルの本はありません。
正式には
「三国志」「魏書・巻三十」「烏丸鮮卑東夷傳」の中の「倭・倭人」に関する
記述
(漢字約二千字)を意味します】  つまり倭人ですが、この文字は中国が勝手に当てた文字です。
当然でしょうその頃日本では漢字が確立していなかったのですから。
魏志倭人伝の発行は3世紀末(280年~297年)と言われています。
応神記に、「名和邇吉師、即論語十巻、千字文一巻、并十一巻、付是人即貢進」 と古事記にみられる。 
つまり、漢字(漢文)の日本伝来は、西暦285年、応神天皇の御代16年に百済照古王の時『王仁(ワニ)』によって「論語」と「千字文」が伝えられた。  3世紀後半の事になる。 
ほぼ同時だが、伝来と日常使うようになる時期は相当隔たりがある。 漢字の読みなどのルールがまだまだできていない頃に古事記が作成されている。それも数百年後のことだ。
     
「文字が無かった」と書くと。 
「日本に文字はありました。」とコメントがきます。 神代文字やホツマツタヱのことを持ち出します。そんなことは存じております。
自分の記事の中でも紹介しております。 偽書説もありますがここでは触れません。
「アラハバキ」で一番厄介なのは「東日流外三郡誌」です。これは学者の中で偽書と認められています。
信じたい人は、このHPに「東日流外三郡誌の正体」としてUPしておりますので熟読してください。

律令政府によって、東北に送られた農民はその地で耕作に励みましたが、しかしその地は、もともと蝦夷の土地だったのです。
「延喜式」によると逆に蝦夷は律令政府により強制的に各地に移住させられました。
    
どこに移住したのか・・・それは、遠く九州までおよびます。
新潟・茨城・千葉・栃木・富山・石川(能登半島を除く)・岐阜・福井・滋賀・三重・兵庫(除く淡路島)・香川・高知・愛媛・
岡山・鳥取・島根(北部)・福岡・佐賀・長崎・熊本・大分・宮崎 のようです。

武光 誠 著 「古代日本」誕生の謎には、荒脛巾神についてこのように記している。

ヤマト政権が勢力を確立し東北への支配を進めて来ても、縄文時代特有の精霊崇拝の伝統は消えることが無かった。
日本各地に根強く残った、縄文的な神々は、やがて神社で祭られるようになり、その多くは国司の指導で平安時代までには、元の名前を失い、日本神話に登場する神へと置き換えられていった。 
(つまり、境内社(摂社・末社)の事ですね。)
しかし、現在でも日本神話に無い神を祭る神社がある。
そのような場所にはヤマト政権の支配を受け入れない勢力があったに違いない。(つまりまつろわない民ですね。)
最も広く分布する縄文的神を「あらはばき神」という。
    
青森県五所川原市には荒吐神を祭る洗磯崎神社がある。  それは安東氏の祖神とされるものだ。
安東氏は中世に活躍した東北地方((日本海側、陸奥国津軽から出羽国秋田の一帯を支配していた。
蝦夷の流れをひく最後の勢力だった。

埼玉県、にある氷川神社は武蔵一宮として平安時代一国の中で最も重んじられた神社だが、元は荒脛巾神を祭っていたと考えられる。
そこには、江戸時代末の天保年間まで「荒波々幾社」という摂社があった。
現在の氷川神社は素戔鳴尊・奇稲田姫を祭る。
元の神を摂社に落として日本神話の中の神を祭れという朝廷の指導でそうなったのだ。
最初から、素戔鳴尊等を奉祀するものであったのならば後から日本神話に見えない荒脛巾神を摂社にする理由はない。
武蔵国に氷川神社が222社あることを考えると古代の武蔵国では荒脛巾神が盛んに信仰されたことが伺える。
氷川神社については、下記にリンクしてあります。

東京都あきる野市にある二宮神社の末社に「荒波々伎神社」
神奈川県厚木市の小野神社末社「阿羅波婆枳神社」このように調べていくと荒脛巾神社の分布は出雲にまで及ぶ。

脛とはすねをさす。つまり「荒脛巾」は足早に移動する有様を表す語だ。
荒脛巾とは、急速に変化する自然をつかさどる神だ。
古代の文献に見える「長髄彦:ナガスネヒコ」・「七拳脛:ナナツカハギ」・「八掬脛:ヤツカハギ」といった人名も荒脛巾神の能力を負う者を表す。
「長髄彦」は「日本書紀」や安東氏の系図にも登場する。
「熱田太神宮縁起」は七拳脛を「駿速をもって駈ける」人という。
  上記の「脛」については若干異論がある。アラハバキはすべてこの字を使っているわけではない。漢字が使用される以前の言葉ですから当て字に近いものがあります。漢字から解釈するとこじつけ的な考えになりがちです。

長野県諏訪市の手長神社、足長神社があり、そこの神は、諏訪明神の家来の手長、足長の巨人だと伝えられるが、
荒脛巾神と同系統の神であったと思われる。
手長足長の神を祭る神社は、福島県新地「手長明神」など幾例か見られる。
「釈日本紀」が引く「越後国風土記」に次の記事がある。
「美麻紀の天皇(崇神)の御世、越の国に人あり、八掬脛の長さは八掬、力多く太(はなは)だ強し。 是は土雲の後なり」

「日本書紀」等は、ヤマト政権に反抗した異文化の持ち主を土蜘蛛(土雲)、国栖(クズ)等と表記している。
武伝説の中に土蜘蛛の姿を伝える文章がある。
「其の為人(ひととなり)身短くして手足長し、侏儒(ひきひと)〈小人〉相類(あいに)たり。
これは事実ではあるまい。 ヤマト政権が手長、足長の荒脛巾のような神を祭る者を蔑んでこのように記したのであろう。

あらはばきの表記は、かなり多いようです。
荒覇吐、荒吐、荒羽祗、阿良波々岐、荒脛巾、、荒掃除、新波々木、阿羅波婆枳、荒羽々気、麁脛バキ、阿羅波比

点在してる分布は、「客人」という表記を含めると
陸奥、出羽、常陸、武蔵(多数)、房総(2)、相模(2)、甲斐(2)、越後(2)、参河(1)、伊豆(1)、伊勢(3)、丹波(1)、摂津(1)、伯耆(1)、出雲(多数)、隠岐(9)、安芸(6)、備後(1)、周防(6)、長門(1)、伊予(多数)、土佐(2)、肥前(1)、壱岐(1)のようです。

※古代先住民の祖神、守護神として祀ったもので、ある文献によると、東北、関東の地に600余社を数えたといいます。
   
                   伊勢神宮に隠された秘密

   

庶民が「お伊勢参り」をするようになったのは鎌倉時代以後で江戸時代になるといっそう盛んになりますが、この辺は時代劇でも良く見かけるのではないでしょうか。
この頃には、神棚も祀られ家庭には神符も配られたようです。

伊勢の地ですが、元々イセツ彦がいたところとされていますが、「記紀」には神武の大和入りの際に東方に
放逐(ほうちく)されたという説話になっています。
※放逐=追いやられた

その後、古名である「磯」が示す磯部一族の海人系集団が引き続いて蟠踞していました。
 ※蟠踞(ばんきょ)=広大な土地を領し勢力を振う。

この一族は、一つの地方政治権力となるまでに次第に勢力を増してきており度会氏(わたらい)と磯部一族を服属させるための伊勢遷宮だったようです。

垂仁天皇二十六年、皇女倭姫命が各地を巡幸ののち伊勢の五十鈴川上にアマテラスを祀りました。
しかし、現在の宇治の地ではありません。

宇治に遷るのはもっとくだって文武天皇二年(698)…この記事は「続日本紀」にでています。

 ※この時点では「多気大神宮」=滝原宮のこと

度会一族の滝原宮は完全に王権に祀りとられて、皇祖神アマテラスが宇治に遷されたのです。
宇治の地には、磯部氏が奉祭する地主神、荒祭宮(あらまつりのみや)があり容易に入れなかったのです。

          荒 祭 宮 (あらまつりのみや)

     

現在、皇大神宮の内宮のすぐ後ろに「荒祭宮」という別宮扱いの社があります。
しかし、この存在を知らないで参拝する方の方が多いのかも知れません。
公式ホームページにも説明はありますが、一般の方は内宮と外宮にしか興味が無いようで見逃しがちでしょう。

古来アマテラスの荒魂だということになっていますが、内宮も別宮十社の中で、内宮神域にあるのは、荒祭宮だけ なのです。
しかも、他の別宮とは異なり、神嘗(かんなめ)月次(つきなめ)のいわゆる神宮の三節祭には、幣帛(へいはく)が内宮とこの荒祭宮だけに奉納され1月4日と旧九月の神衣祭(かむみそのまつり)では内宮と荒祭宮だけに神服
織殿(かむはたおりどの)で織った神衣を供えるなど内宮と同格の扱いを受けて他の別宮とは断然格式が異なっているのです。
 ※幣帛=神に奉献する物の総称 
抜粋: 荒祭宮は、内宮に所属する10別宮のうち第一に位しています。
殿舎の規模も他の別宮よりも大きく、第一別宮として正宮につぐものです。
『延喜式』に「荒祭宮一座 大神の荒魂」とも見えます。 祈年祭・神嘗祭・新嘗祭の奉幣の儀も、正宮にひきつづき、同日に勅使、大宮司、少宮司以下神職がただちに参向して幣帛がたてまつられます。
又、神饌の種類や数量も正宮とほとんど同一のものが供せられます。 大祭中の大祭、式年遷宮も、古来より正宮に準じて執り行われています。
古来以来の大祭、神御衣祭を受けられるのは、内宮と荒 祭宮のみでありますことからも、この宮の特別な神位がうかがわれます。

荒祭宮の位置は、現在の内宮が式年遷宮をする東西の殿地の中でも最初の殿地だったとされる西殿地の真北にあたり、
 あたかも内宮の古い本殿のような形をとっている。

鎌倉時代の「神宮雑例集」に引用されている「大同本紀」の文には「皇大神が鎮座のとき、度会氏の祖先の大幡主が最初に
 荒祭宮の地に大宮を造った」という伝承がある  。

荒祭宮の神域内から白玉などの祭祀遺物が出土したこと。

これらのことから荒祭宮の祭神こそ古い内宮の地主神であったと述べている。
また、「荒祭宮の神に対する仕事が特に荒祭物忌と言って特別な専属の巫女が置かれている。
これは、古い土地の豪族であった磯部氏から出した」と述べている。

(「古代王権の祭祀と神話」橘書房&「伊勢の大神の宮」堀書房 桜井勝之進著 &「日本の神々」中公新書松前健氏著)

地主神とは

「神道集」の説話があるのですが、・・・・短縮・・・・カット

天武天皇の御代に伊勢の国、度会郡から荒人神として出現し上野の国群馬郡白井の地に神となって現れたのが児持大明神である・・・・・

            ~割愛~

伊勢神宮の荒垣の内におられのがそれである。
群馬県吾妻郡の後藤菊次郎著「子持山縁起」では、「荒人神」が「アラハバキ姫」となっておりまた、終りの部分は「伊勢神宮のあらがきの内におはします。すなわちあらはばき是なり」とアラハバキ神の名を明記しています。

つまり、荒祭宮が伊勢の地主神=アラハバキ神だという説話なのです。

二見にも一族の二見氏がおり興玉神社がある。その沖合(鳥羽市小浜町)に「飛島」という小島があり古くは
「阿波良岐島・淡良岐島」と呼ばれ、アラハバキからきたものに違いないと思われます。

渡会氏の「神道五部書」でも内宮の殿地の地主神と興玉神だと記している。
つまり、アラハバキ神だったということです。

外宮の主祭神は豊受大神である
アメノミナカヌシ(天御中主)、クニノコトタチ(国常立)、ミケツ神の諸神はいずれもトヨウケノ大神の別名としている。

大自在天は梵語では、マケイシュヴァラ:Mahesvara(摩醯首婆羅)といい、世界の主宰神で特にシヴァ神のことを指しており、密教においては、大日如来の応現ともしている。
※応現=応化(おうげ、おうけとも)仏、菩薩が衆生を救うためにいろいろに姿をかえて出現すること。
  
つまり、アメノミナカムシはシヴァ神だというのです。
大元とは、オオモト、すなわち始源の意味であり、外宮の神はまず初めに生まれた神である。
したがって万神に先がけて生まれた神こそ最高神である。

しかし、これは表向きであり「大元尊神」実体は「アラハバキ神」のことにほかならなず、ホアカリ系が渡来以前から最高の神としていたものを巧みにカムフラージュしたもであった。

私が今気になっているのは、宮島には「大元神社」があり客神社が三社位ありましたね。厳島神社とアラハバキの関係が気になります。

伊勢神宮には、もう一つ「太一」という信仰がある。
太一を表に出した伊雑宮(いぞうのみや)の田植え祭は有名だが、その解釈はまちまちのようです

  
伊雑宮は原出雲系のイサワトミを祀る神社であった。
        
           
 
     

     
内宮の別宮とされながらも、由来を抹殺された磯部氏の祀る伊雑宮
伊雑宮は「延喜式」の「神名帳」に「磯神社」とある。
「倭姫世紀」では、イサワトミがヤマト姫(倭姫)を迎えて志摩国の磯部の地に穀物の神として祀った由来を述べている。
しかし、割愛しますが微妙の表現であいまいに誤魔化されてしまっている。
太一というのは、中国の陰陽五行思想から名付けられ・・・・・
太一は最高の神であり、その居所は北極とされ、北極星の神霊化であり宇宙の大元であるとしている。
この中国思想は道教に反映して道教は古代インドの密教と習合して「大元帥明王」になった。
太一という隠れ蓑を着た最高神であるアラハバキ神のことであった。

アラハバキ神すなわち大元神を
取り入れたのは、渡会氏、磯部氏の一族だけではなかった。
「記紀」編纂によると欺瞞(ギマン)の歴史の押しつけという暴挙に対して古来の伝承や系譜を持つ有力氏族が反感を抱かないはずがない。
※欺瞞=真相が見えないようにだます。

 
     ここから時代は遡ります。

古代インドにあったアラハバキはさらに遡れば南アラビアに根源がある。
南アラビアからインドに移動して来た、アーラヴィと呼ばれる一団が「その信仰を持っていた。

だが、アーリア族の侵攻で一土俗信仰となり、ついでインド仏教の雑蜜成立にともないヒンズー教その他の諸神とともに仏教の守護神という、いわば外道の神に位置付けられた。
それが中国には、インドから移動して来た、雑蜜系の僧によってアラハバキ神がもたらされ、さらに道教と習合して大元帥明王という呼び名に変身した。
その変化をいち早く知った渡会氏は、古代アラハバキを大元神という最高神に仕立て大和朝廷に抵抗を続けた古代アラハバキの信仰を持って渡来した古氏族も朝廷の暴挙に不満を持ちアラハバキ大元神に替えてギリギリの自己主張をしたのである。

籠神社の先代宮司海部穀定氏が生涯をかけた研究「神代並上代系譜略団記(深秘相伝)」巻頭には「天照大神は国常立尊すなわち大元神の所顕であらせられる」とアマテラスが人格神でないことと、国常立は大元すなわちアラハバキであるとことを明記してある。

この一連の海部氏の秘伝は「記紀」が明確に記すことを避けた神の素性に関わる疑惑に明快な回答を与えるとともに日本古代史の再考を促す超一級の証書であり資料である。

アラハバキの信仰は弥生時代のごく初期、あるいは縄文時代のごく終わりの頃に渡来したものである。
そしてその原点が南アラビヤのヤマン地方にあり、アラハバキの語源は最高の神の意味である。
古代アラビア語の「アラハバキ」からきている。

かつて、中山太郎氏は「アラハバキ神は天孫族が、我が国に渡来する以前に、先住民族によって祭られた神、すなわち地主神である」という鋭い指摘をしたが(日本民族学②大和書房) それ以上の追求は出なかった。

私も以前そう思っていました、またアラバキ族とかアラハバキ族という言葉も耳にします。
おそらくこの信仰を持っていたものを総称して表していた言葉なのでしょう。

時代が下れば、これも否定はできないと思います。
しかし、ここで述べているのはどこから発生したのかを追求していますので、もっと遡って考えましょう。


    南アラビヤからインドへ

南アラビヤからインドに入って住み着いた一団は、その後アーリア系の侵入で森林広野に住んでいたので「アーラヴィ」 (林住族)と呼ばれたことが、紀元三世紀のインド・マウリア王朝の宰相カウテリアの著書「実利論」に出てくる。


    インドから中国へ

アラハキ神はシルクロード経由で雑密僧によって中国西北部の?奴に入った。
中国本土では三世紀の三国時代(220~280)西域の雑密僧によってアラハバキを含むプレ雑密僧文化が「呉」に入り江南を中心として中国全土に広がった。
8世紀の唐代(618~907)密教教典の訳出が行われた。
この時代には、音写ではなく義訳による漢訳教典が続々と現れて、「元帥」「大元帥」の形になって行きました。

この漢訳教典は宮廷に設けられた内道場で、?命により秘訳されたということは、皇帝以外には行うことが許されない秘法であったことを
物語る。
この時点でアラハバキ神の性格は護法神から国家鎮護の「大元帥明王法」として皇帝独占の秘法へと変わった。
(通常大元帥明王は「帥」の字を読まず「だいげんみょうおう」とよんでいる)
 

    中国から日本へ

9世紀になると中国で漢訳された密教経典や道教と習合した大元帥明王法は遣唐使により日本へもたらされることになった。
小栗栖(オグルス) 承和4年(837)に請来(しょうらい)空海の奏上、仁寿元年(851)以降、朝廷では二つの密教秘法が毎年正月八日に行われた。
一つの「御七日後修法」(ごしちにちのみしほ)と呼ばれ天皇の玉体護持と国家安穏を祈る。
真言密教の秘密法で、もう一つが「大元帥御修法(だいげんのみしほ)」で怨敵、逆臣の調伏、国家安寧を祈る大法であった。

    ※古語辞典では=「大元帥の法」だいげんーのーほふ
陰暦正月八日から~十四日までの七日間、冶部省(じぶしょう)で国家鎮護のために大元帥明王と本尊として行った大法会(ほうえ)
【栄花】みはてぬゆめ
「大元帥の法といふことは、ただ公(おおやけ)のみぞ昔より行はせ給ひける」
〔訳〕大元元帥の法会ということはもっぱら朝廷だけが昔から行いなされていきた。


空海は真言密教の開祖であるが、梵語・ペルシャ語・アラビア語にも通じ、はるかインド、
さらにはアラハバキの原点に指向していたのです。
古代信仰のアラハバキがインドから中国に入り大元明王に変身して皇帝独占の秘密法となったのを見逃すはずはなかった。

当時、仏教は国家仏教で庶民とは縁遠い宗教であったが、渡会氏が外宮を大元尊神とする教理を打ち立てた
のと同様に、仏教に組み込まれて外道に落とされたアラハバキ神の本流への復活が狙いだったのでは無いだろうか。

政府間レベルの中国との遣唐使による国友の他に物部氏系や古代アラハバキ信仰を持って弥生初期に渡来し
た古氏族は、独自のルートをもって中国と交流があり道教と習合した「大元」を知っていたとしなければなるまい。                                                                          
   アラハバキと神社

弥生の初期に渡来した部族の最高神アラハバキの信仰も「記紀」の影響や仏教による変容で、すっかり影をひそめ江戸時代には、何神であるかは不明になってしまった。
わずかに古代氏族が王権の抹殺をのがれるために密かに今日までその伝統を守り続けた。
かろうじて文献のみその名をとどめるか、あるいは、末社で密かに生きつづけるのにすぎない。

神社や寺院にはアラハバキの名こそ消えてしまったが弥生文化といえば稲作と同時に製鉄の始まりで
あるからアラハバキ神は製鉄とも密接な関係があることを無視できない、草鞋、鉄製下駄を供えたり、目の神様になっていたり、習俗から見て元の神が変容していることを示す、例が数多く発見できる。
それから、多くの本殿や本堂ではなく、末社・摂社に追いやられているので注意したい



    あらはばき神社はどんなところに見られるでしょう。

【青森県】 津軽地方は平安になるまで中央の大和朝廷の勢力が及びませんでしたから、かなり残っているはずですが、あまり発見されて       いない。
       青森市松森=麁脛縢明神社(あらはばきみょうじんしゃ)
       五所川原市=中山山地の中山修験の霊場・・・かつては古修験の聖地、仏教による変化とともに
       名前は消えたが、恐山のイタコの信仰とともに最も古い信仰であり、アラハバキと推測
       津軽の荒磯神社・洗磯神社・磯崎神社はかつて荒脛巾神社であった。

【宮城県】 私の記事にある岩出山の荒脛社【旧、荒鎺(はばき)権現社】(「封内風土記」所載)
       多賀城の荒脛巾神社(旧、阿良波々岐明神社)

【秋田県】 雄勝郡大沢村上法寺山・・・阿良波々岐権現社(「出羽国風土記略記」所載)
       仙北郡美郷町・・・荒羽袛神社

【山形県】 古修験の信仰から出羽三山も可能性がある

【福島県】 会津若松市湊町赤井・・・荒脛巾神社
       田村郡三春町・・・・・・田村大元神社
       会津若松市北町・・・荒鎺神社

【千葉県】 市原郡姉ヶ崎町の式内社・姉崎神社・末社に新波々木社がある
       船橋市・・大神宮、古くは音富比(オオヒ=大火か?)神宮と呼ばれていた。
       その社家は最近まで木更津の富の家筋で、九十九代の系譜があるという。
       富氏との関係があるという。

【神奈川】 横浜市戸塚区公田町に通称「アラハバキ」と呼ばれる地名があり、高さ80センチほどの石の祠は
       「アラハバキさま」という。
       厚木市小野の式内社・小野神社末社に阿羅破婆枳神社がある。
       「新編相模国風土記稿」によれば「阿羅破婆枳、春日の二社を相殿とす」とあるのでかつては本殿にあったもの。

【埼玉県】 氷川神社が沢山あります。その末社が荒脛巾神社又は荒脛社・荒脛巾明神といわれています。
       上尾市菅谷(旧、足立郡菅谷村)氷川神社の末社
       上尾市戸崎
       上尾市今泉
       大宮市高鼻町(式内社の名神大社・氷川神社摂社に門客人社がある。
       「江戸名所図会」には荒波々幾社として載せているので天保の頃まではアラハバキを称していた。
       隠されたアラハバキ神の謎/氷川神社編
       大宮市中鉢:氷川神社の末社が荒脛社
       大宮市島根:氷川神社の末社が荒脛社  
       大宮市日進町:氷川神社の末社が荒脛社   
       大宮市中川:氷川神社の末社が荒脛社
       大宮市宮前:氷川神社の末社が荒脛社
       大宮市内野本郷:氷川神社の末社が荒脛社
       大宮市櫛引町:氷川神社の末社が荒脛社
       伊奈町小針内宿:氷川神社の末社が荒脛社
       吹上町:氷川神社の末社が稲荷・門客人・諏訪の合社。
       浦和市西堀::氷川神社の末社が荒脛社(東隣は製鉄に関する別所がある)
       浦和市田島:氷川神社の末社が荒脛社
       浦和市白鍬:氷川神社の末社が荒脛社
       浦和市内谷二丁目:氷川神社の末社が荒脛社
       桶川市小針領家:氷川神社の末社が荒脛社
       川口市芝:羽盡(はぞろひ)【羽曽呂ともいう】の末社に荒波々喜社がある。
       近くには須賀の地名(製鉄に関わる地名)
       川口市戸塚:氷川・熊野峯岳明神合の末社が荒脛巾だった。
       川越市古谷本郷:八幡神社の末社は荒脛明神他二十一社の合殿。
       坂戸町塚越:住吉神社に末社に荒掃除神が祀られていた。
       所沢市三ヶ島:中氷川神社(旧、名が宮明神)末社に荒脛社がある。
     

【東京都】 江戸城に荒脛巾祠堂があり、大田道観が城神として信仰、のち大元明神に改称している。
       五日市町養沢の門客人明神社「新編武蔵風土記稿」にアラハバキ」と片仮名で訓みをつけている。
       秋川市二宮・・二宮神社末社は、荒脛社である
       奥多摩町氷川:奥氷川神社は背後の愛宕山の頂上に祀られた阿羅波岐社だった。
       福生市熊川:熊川神社(旧、礼拝大明神〔ぬかだいみょうじん〕)の末社は荒脛社
       多摩市一ノ宮:小野神社には随身像が二体ある。随身はアラハバキ神の門客人化したもの
       湯島天神の前に大元堂がある。
       葛飾区四ツ木:白髭神社はかつて客人大権現と称し、境内社の大鳥神社には大小十数基の石碑に「客人大権現」と刻まれて       いる。 
       

【山梨県】 上都留郡下和井村の百歳山春日神社には地蔵尊の立像アラハバキ二体がある。

【静岡県】 伊豆の三島大社はかつて荒脛社だった。

【愛知県】 宝飯郡一宮町の式内社・砥鹿神社(とがじんじゃ)はかつて4キロほど北にある本宮山(刀鹿の峰)の頂上にあった。
       現在奥宮として残っておりその末社に荒羽々気神社がある。(祭神は大己貴命荒御魂)
       新城市大宮の石座神社(いわくらじんじゃ)の末社に荒波婆岐社(御祭神:豊石窓命/奇石窓命=天石門別神)がある。
       新城市杉山の竹生神社の境内社に荒羽々気神社がある。

【新潟県】 越後の一宮といえば弥彦神社、その記録によれば神社の一角に「アラハバキ門」がある。

【京都府】 丹後の籠神社の祭神が大元尊神である。

【広島県】 安芸の宮島で知られる厳島神社の地主神は、土地では「おおもとさま」と呼んでいる。

【鳥取県】 東伯町保に大元神社(八幡さま)がある。(神社名鑑)

【島根県】 出雲大社の境内末社に門神社二社があり、出雲大社資料館の彰古館には寛政8年(1668)作成の
       古社図が展示してあり、門客人社と記載されている。
          

       八束郡千酌の爾佐神社の境外社・荒神社は、通称「お客さん」とか「まろとさん」と言われ、「アラハバキさん」と呼ばれていまし       た。
       太田市大森町(旧、邇摩郡大森町字佐摩)の城上神社境内社が大元神社である。 (神社名鑑)
       太田市祖式町(旧、邑智郡祖式村祖式)の八幡宮境内社が大元神社である。(神社名鑑)
       那珂郡弥栄村木郡賀(旧、杵束村木都賀)の八幡宮境内社が大元神社である。(神社名鑑)など他に11社ある。

【岡山県】 新見市石蟹に大本神社がある。(神社名鑑)

【愛媛県】 八幡市浜若山に大元神社がある。 (神社名鑑)
       北宇和郡広見町内深田に大本神社がある(神社名鑑)
【高知県】 安芸市赤野に大元神社(旧、大本社・大本明神で大元神を祀っていた) (神社名鑑)
 
【壱  岐】 壱岐郡郷ノ浦町渡良の物部布都神社は社記には阿良波加大明神とある。(壱岐国誌)
       ここには、氏神のアラハカ様に入って漂着したという物部氏の降臨伝承がある。

【大分県】 宇佐市の宇佐八幡の奥宮は大元山(御許山)の頂上にあり、大元神社という。

   大元神楽舞・大元神楽式の神事がある神社    

大元神楽は石見神楽とも言われる。
出雲の佐陀大社(島根県ハ束郡鹿島町)の神楽をその中心として、出雲全部にあまねく普及し山陰、
山陽方面のも広く分布するようになった。


【島根県】
       江津市の高倉山八幡宮 (神社名鑑)
       邑智郡石見町の賀茂神社(神社名鑑)
       邑智郡石見町の大原神社(神社名鑑)
       邑智郡石見町の諏訪神社(神社名鑑)
       邑智郡桜江町の八幡宮=郡鳩八幡宮(神社名鑑)
       邑智郡川本町の三原八幡宮(神社名鑑)
       邑智郡瑞穂町の八幡神社(神社名鑑)
       那珂郡旭町の市木神社=旧、馬場八幡(神社名鑑)
       邇摩郡温泉津町の八幡宮(神社名鑑)

地名・寺院に残るアラハバキ
       「和名妙」にはアラハバキの元の発音に近いと思われる、「アラハカ」の郷名が出ている。
       武蔵国豊島郡荒墓郷
       越前国坂井郡荒都泊郷
       常陸国那珂郡荒墓郷

       難波四天王の旧地名は荒墓邑といい、四天王の山号は現在でも「荒陵山」(訓読みするとアラハカ)である。
       鳥羽市小浜町区内の二見ケ浦沖合にある「飛島」は古くは「阿波良岐島」「淡良岐島」といっていた。


       この他にも、アラビア語との関係や日本文化のルーツについて書きたいのですが、長くなりましたので、またいずれ・・
       この辺でひとまず区切りとします
  
    クナトの大神

「日本書紀」では「岐神」、「古事記」では「衝立船渡神」出雲井神社には「久那斗大神」として祀られている。

「我々の大先祖は「クナト(岐神」)の大首長だがもう一つの女首長に「アラハバキ(荒吐神)」があり、体制側によってこれが抹殺されようとした時、クナト「地蔵」「アラハバキ」「弁才天」へと変身した。

アイヌ語で「クナト」は男根、「アラハバキ」は女陰の意味で本来、一対のものだと言われる。
これは、倶知安のアイヌの酋長菊池俊一夫妻の話。

クナトノ大神は、幸の神、寒の神、道祖神、道陸神(どうろくじん)とも呼ばれている。

久那斗神社で検索すると一件だけ岩手県北上市和賀町の山に存在する。
近い内に行きたいと思っています。 やはり、道に関係するようです。

上記に記載した通り、一対のものである。とするのも要因の一つですが、時代的にも律令国家が出来る以前の話であることや、アラハバキは鉄の神様と言われることもある。
出雲大社の御神体は釜であり、鉄に関わる。

または出雲神族が氷の山を越え現在の地に根付くまで、塩釜で塩作りを教えていること、多賀城の荒脛巾神社は鹽竈神社(塩釜神社)の
末社とされています。
しかし、鹽竃神社より荒脛巾神社の方が古いと思いますので、後にそうなったのでしょう。

アラハバキは旅をして回る神という性格があります。 もっとも直接的には、出雲国島根郡爾佐神社境外社「荒神社」はマロトさんと呼ばれていた、という証言があります。

マロトとは門客人のことで、門客神とは、「客人神(まろうどがみ)」のことで、「客人神」は地主神がその土地を奪われて、後からやって来た
日本神話に登場する神々と立場を逆転させられて、客神となったと考えられているようです。


「あらはばき」の記事ではアイヌ語に照らし合わせたら、arpa-pake がある、これは、行く(発つ・出発する)・首領(頭)などの意味になるらしい。  と書いていますが、上記の女陰との関係はまだ不明です。
言葉を区切った場合と続けた場合ではまた違うと思いますが発音などを聞いてみたいものです。

    アラハバキとは何か

津軽の民が古代から信仰していた神がアラハバキがある。
御神体は黒光りする鉄の塊という謎めいた神で、未だに正体は解明されていない。
亀ヶ岡遺跡や大湯ストーンサークルからは、変わった形の壺や笛に用いたとされる菱形の土器がよく出土する。
それらはトルコの辺りにかつて存在したヒッタイトの土器と非常に似ている。

ヒッタイトは世界で初めて製鉄を行った古代帝国である。
ヒッタイトのどこで土器が作られていたかを追い求めると、製鉄施設を含むアラジャ・ホユックの遺跡にたどり着く。
ヒッタイトでは鉄製品をハバルキと呼んでいた。
アラジャ・ホユックのハバルキが転じてアラハバキになったのではないか?

土器の類似性から相当古い時代に竜を崇める民が日本に渡って津軽辺りに住みつき、縄文時代を作り上げた可能性があると考えている。

幼い頃より馴染みの深い神ではあるが、なぜ拝まなければならないのか、実はよく知らない。
 「蝦夷とて拝んでおるじゃろうに」
二風は面白そうに笑ったあと、「須佐之男命の名を存じておるか?」
真面目な顔で訊ねた。阿弖流為は首を傾けた。母礼も知らないらしかった。
「陸奥とはあまり縁のなき神。むしろ蝦夷にとっては敵に当たる。 出雲に暮らしていた蝦夷の祖先を滅ぼした神じゃ。
その須佐之男命が出雲の民より神剣を奪った。 草薙の剣と申してな・・・別名をアメノハバキリの剣と言う」
「ハバリキの剣」 阿弖流為と母礼は顔を見合わせた。
「鉄で作った刀のことじゃ。それまで朝廷の祖先らは鉄の刀を拵える技を持たなかった。出雲の民を滅ぼして、ようやく手に入れた」
「するとアラハバキとは?」
「鉄の山を支配する神じゃよ。この神の鎮座ましますところ、必ず鉄がある。アラハバキの神は鉄床を磐座となされる。
我ら物部はその磐座を目印にして鉄を掘りだし、刀や道具を代々生み出して参ったアラハバキの神こそ物部を繁栄に導く守り神」
「・・・・・・」
そればかりではない。アラハバキは少彦名神とも申して、出雲を支配していた大国主命のお手助けまでなされた。
それで蝦夷も大国主命とともにアラハバキを大事にしておる」
なるほど、と二人は頷いた。物部は鉄の在処を知らせてくれる神として、蝦夷の祖先の地である出雲の神として敬っていたのである。

                                   (「火怨 北の燿星アテルイ」高橋克彦著より)




      上記の文は「あらはばきを見る」のページにある記事からピックアップしました。
      ア・ラ・ハ・バ・キの語源について色々な説が出てきましたが、本の内容をそのまま引用しました。
      まだまだ、解らないことばかりですが、実在するアラハバキ神社を否定はできません。
      これからも追及していきたいと思います。

また、瀬織津姫についてまだ触れていません。 非常に近い存在なのですが、私の中ではまだ消化されていません。上記「クナトノ大神」の所で『クナト「地蔵」「アラハバキ」「弁才天」へと変身した。』 とあります。
弁財天=瀬織津姫=アラハバキ とも考えられます。 弁財天=龍神です。 
気になりますね。  もう少し情報を集めて記事にしたいと思います。


   



 次ページは「アラハバキ神社を見る」です。 アラハバキ神社と表記された神社をご覧ください。


    まだ、編集途中です。随時ページを増やして行きたいと思います。
   



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